小谷野敦著『歌舞伎に女優がいた時代』(中公新書ラクレ)を読む(その1)

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 Amazon経由で、小谷野敦著『歌舞伎に女優がいた時代』(中公新書ラクレ)が昨日届いた。歌舞伎は男の演者が演じるもので、女優は舞台に立つことはないし伝統的に立ったこともない、と不覚にもこの世間的常識を疑ったことはなかったが、この〈伝統〉なるものはじつはそんなに遡るほどの歴史的時間に育まれたのではないようだ。「はじめに」によれば、昭和6年、それまで女優も出演していた歌舞伎上演の帝国劇場が松竹に貸与されて映画館となり、女優は歌舞伎から離れ、歌舞伎の上演は歌舞伎座が中心となり、男性演者のみの今日の形式が生まれたそうである。驚いた。
 そもそも歌舞伎の始祖とされる阿国かぶきとは別系統の売春を伴った遊女歌舞伎=女歌舞伎の伝統があり、これが寛永6(1629)年風紀上の問題から禁止され、明治維新とともに解禁されるまで女の歌舞伎出演は表舞台から消えていたのであった。
 歌舞伎は、少年時代から芝居嫌いの父に代わって母のお供で、歌舞伎座か通し狂言国立劇場でよく観ていたものである。女形といえば、1967(昭和42)年3月国立劇場公演『桜姫東文章』ですでに稚児白菊丸役の初々しい坂東玉三郎を観ているが、四代目中村時蔵の印象が強い。石切梶原を歌舞伎座の1F花道左で観たとき、梢役の時蔵をすぐ近くで観たのであった。美しかった。ところが、たしか翌日その急逝(自殺?)を知らされたのであった。衝撃を受けた。

 若衆歌舞伎・野郎歌舞伎を通じて、具体的にどのような演目が演じられたのか、元禄ころまではあまりはっきりしない。能楽からとったもの、また「物まね・狂言尽くし」と言われたように、能狂言の演目を演じていたようでもある。
 だが、そのあとの歌舞伎の歴史の説明となると、これまでの多くの歌舞伎入門書の類が「失敗」している。元禄時代に、江戸で市川團十郎が荒事を、上方で坂田藤十郎が和事を確立した、などと言うが、そういう知識が、実際に歌舞伎を観に行って目にしたものとうまくかみ合わないのだ。まさか東京では「暫」や「鳴神」ばかりやっているわけではないし、和事となると、それは近松門左衛門浄瑠璃か、と言うことになる。(p.25)