ワーグナー台本・作曲『さまよえるオランダ人』(2/2 新国立劇場 オペラパレス)観劇

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        (マリー役は、山下牧子→金子美香(歌唱)・澤田康子(演技)に変更。)

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    2/2(水)新国立劇場 オペラハウスにて、リヒャルト・ワーグナー台本・作曲『さまよえるオランダ人』を観劇。演出はマティアス・フォン・シュテークマン、指揮はガエタノ・デスピノーサ、管弦楽は東京交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。もともとのキャスティングは以下の通りであった。

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 デスピノーサ&東響の音楽は素晴らしかったが、ジェームズ・コンロン指揮だとどう違っていたのか、素人には推測できない。新国立劇場合唱団の合唱も美しく、とくに女性合唱の「糸紡ぎの合唱」は、1幕目の暗鬱とした雰囲気をガラリと変えて心地よかった。
 座席が3列目で一番左の端の席、こちらは常に通路側端の席を希望するのでこうなってしまう。見上げると、英語字幕のスクリーン板がはみ出していて、縦の日本語字幕板が上半分ほどしか見えない。客席から右側の日本語字幕は全部見えるが、近視のこちらとしては遠いことと、角度的に観客席に斜めに向いてあり、読解できない。物語の展開はむろん知っているが、歌詞の微妙なところを読み間違えていたかも知れない。
 入場後すぐ誰か歌手が変更(声と演技が別の人)となっているとプリントで知らされたが、手元の連絡を注意して読まず、壇上での説明も聴き取れなかったので、ゼンタ役が変わったのかと勘違い、現代演劇のかつてのク・ナウカ(宮城聰主宰)の舞台で、声の人と演技の人が別であることには慣れていたので、はじめ、伝説のオランダ人の絵を前にしたゼンタ(田崎尚美:ソプラノ)のバラードでは気がつかなかった。失態。ずいぶん今の技術はスゴイなと思ったほど。ゼンタのオランダ人(河野鉄平:バス)との二重唱、かつての恋人エリック(城宏憲:テノール)との二重唱、ゼンタとオランダ人、それに父の船長ダーラント(妻屋秀和:バス)を交えた三重唱の感動とともにふつうに田崎尚美のソプラノを耳が捉えたのであった。だいたい可憐に躍動する演技じたいで、田崎尚美と気がつくべき、情けない。オランダ人役が世界最高峰のワーグナー歌手とのエギルス・シリンス(バリトン・バスどちらで?)から変更になっていたので、どうかと思って臨んだところ、河野鉄平のバスと佇まいは感動もの。日本のオペラ歌手の層の厚さとレベルの高さを知らされた。しかし、昨年夏の東京オリンピック開会式&閉会式の祭典としての演出・構成の貧しさをあらためて思い起こした。なお合唱でソシアルデスタンスをとっていたのはなるほど状況に対応しての工夫であった。

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 公演プログラムに掲載の東雅夫氏の「洋上を這い寄るもの・幽霊船の恐怖」は面白い。ワーグナーのこの作品が、悪魔の呪いで(7年に1度しか上陸できない)永遠に洋上をさまようオランダ人の伝説を題材にしていることから、世界の彷徨う幽霊船および日本の(アカ=海水を汲み取るための)柄杓を求める船幽霊の伝説類を紹介している。最後の箇所で、某音楽研究家の説として、『さまよえるオランダ人』にはパリで演劇上演で人気を博していた『吸血鬼』の影響があるのかも知れないとのことで、「ゼンタを魅了する蒼ざめたオランダ人の造形に、美しき吸血鬼の元祖たるルスヴン卿が影響しているというのだ」。
 同プログラム掲載の北川千香子氏「ワーグナーのオペラたち〜飽いと救済を巡る変奏曲〜」によれば、若きワグナーはフォイエルバッハに傾倒し、愛による苦悩と孤独の救済をテーマとして創作しているが、フォイエルバッハの「性愛」による救済からさらに、心の働きに注目して共苦を通じての救済を音楽作品の中に結晶化させようとした。ゼンタの愛は、オランダ人の苦悩を共に苦しもうとするものであり、その証として身を海に投げたのであった。
 本来ならば、オランダ人も死に(永遠の彷徨から解放され)、ふたりの霊が昇天するところで終わりなのだろうが、マティアス・フォン・シュテークマン演出では、ゼンタが幽霊船に飛び乗り、船とともに海底へ沈んでいき、オランダ人がその場に倒れて幕。まるで『曽根崎心中』みたいな終わり方であった。音楽の力であろう、何となく解放感を感じて帰路につくのであった。