テネシー・ウィリアムズと三島由紀夫

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 昨日9/11(水)は、墨田区横川にあるすみだパークスタジオ倉にて、ポピー中西プロデュースのマチネー公演、テネシー・ウィリアムズ原作の『西洋能 男が死ぬ日』を観劇。スピーカーから笛と鼓の音が流れて始まった。たしかに能の舞台装置もどきで劇は進行するが、ふつうに現代劇である。だいたい諸国行脚の旅僧=ワキがいない。東洋人なる語り部、これがアイにあたるのか、自殺と死をめぐる東西比較文化論めいた饒舌を語る。テネシー・ウィリアムズの友であった三島由紀夫に捧げられているが、作者の分身である画家と恋人の関係を、いわば私小説的に自ら暴いた作品ということのようである。眠かった。この夏、ちょうど昼寝にあてている時間帯(2時〜3時)だったので、生理的にも展開に乗り切れなかった。ただ恋人の女性役を演じた遠藤祐美は、モデルとしても活躍しているとのこと、さすがに魅力的で官能的な肢体、そこだけ最前列で堪能できた芝居であった。時折ポルノ風の巨大な黒のモノトーンの絵が掲げられるが、むしろ男優・女優肌色の妙な下着姿で演じるよりも、裸で勝負したほうがよかったのでは。

 帰り際、原作本の、広田敦郎訳『男が死ぬ日他2篇』(而立書房)を購入。三島由紀夫×テネシー・ウィリアムズの対談が収録されている。暑い中帰路はタクシーを利用せず、JR錦糸町駅まで歩いた。構内テルミナで立ち寄る喫茶店モーツァルトがなくなっていて、オスロコーヒーというカフェがあった。そこに入店、コーヒーとオスロパンケーキを注文。オスロパンケーキはなかなかいい。生クリームがあれば、蜂蜜シロップは使用不要である。

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 三島由紀夫×テネシー・ウィリアムズ(1959年)の対談は面白い。

ウィリアムズ:現代の日本の若い作家たちは、いつも死という概念にとらわれているように思う。私たちはまた、人生そのものに望みを見出さない。望みはたまゆらのごときもので、人生の刹那刹那に見出される……。こういう点で、アメリカ南部の小説と、日本の文学とに共通点を見出すことができる。

三島:僕は滅びていくものは美しいと思うんです。つまりアメリカ南部のように、あるいは日本のある時代のように……。だけど、ただ滅びていくだけでは意味がないので、そこに復活がなくてはならない。

 そういう意味で僕は、あなたの芝居のテーマというものは、一度滅んでいくのだけれど、必ず生へ帰る——というものだと思う。一度犠牲にされた人間は、結局、何かの意味で、また生れ変ってくる。それはあなたのテーマの中で、一番大事なことだと思う。そういう点で、あなたが太宰を好きな理由はわかるけれども、また、僕が太宰がきらいで、あなたが好きだという理由にもなると思いますね。彼は、ほんとうに滅ぶことしか考えない。彼はただロマンチストだ。テネシーのは、書かれている人物がロマンチックなんで、テネシー自身がロマンチックというわけではない。(pp.137~138)

テネシー・ウィリアムズ作品観劇の記録】

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  1963年劇団民芸公演、新宿文化劇場にて、菅原卓 訳・演出『夏の日、突然に』

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  1979年6月松竹・文学座提携公演、池袋サンシャイン劇場にて、鳴海四郎訳、木村光一演出『地獄のオルフェ』

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   1983年5月27日ミルウォーキー・レパートリー・シアター来日公演、新宿シアターアプルにて、ジョン・ディロン演出『ガラスの動物園

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   1988年3月帝国劇場にて、蜷川幸雄演出『欲望という名の市電』