文士と伝統文化


 「特集・三島由紀夫澁澤龍彦」巻頭の三島由紀夫文学館レイクサロン講演記録が面白い。講師は、若き三島由紀夫の恋人であった後藤貞子さんと、亡き中村歌右衛門を通じて今も交流の続いているとの、ハコちゃん=岩下尚文(ひさふみ)國學院大学客員教授で、演題は「三島由紀夫の観た梨園花街」。「はっきり申し上げますと、客席で見ているだけでは、たとえ何十年のあいだ見続けたとしても、芸の理解は深まりません。見る側の身体の中に、芸を受け取る基準がありませんからね」との認識が基底にある。それはそうだろう。サッカーボールを蹴ったこともなく、とうぜんゴールを狙った体験もない人がサッカーについていくら薀蓄を傾けても、説得力はあるまい。もっとも解説となると、己の修練に裏打ちされた身体的直感を表現することばをもたないと、野球の長嶋茂雄とか村田兆治、サッカーの木村和司とかのように、(天才ではない)視聴者には何が言いたいのか伝わらないことも事実である。さらにしつこく、ピアノもヴァイオリンも弾けない人が音楽の批評をしても、愉しさと苦渋は十全には感じられない。納得できる。

 三島由紀夫は、その育ちの上からも、長唄浄瑠璃に舞踊などの遊芸に身をやつすことは許されませんでしたから、何の稽古もせぬまゝにひたすら劇場の椅子に坐ることで、いたずらに目ばかり肥えてしまったようです。

 花柳界と文士についての指摘も初めて知った。むろん作品の価値とは関係ないが、参考にはなった。

 まあ、三島由紀夫に限らず、明治大正の頃から、新橋や赤坂の一流どころには文士の立ち入りは許されなかったわけで、中では金を使った形跡のある荷風でさえ、その『腕くらべ』を読んでも、妻にした芸者の格を見ても、小待合専門の遊びであったことがわかります。これが敗戦後になりますと、いっそう縁が離れまして、赤坂や祇園で自前で遊んだのは里見弴や吉井勇くらいなもので、それでも大茶屋で宴会をするという形での上客ではなく、芸者から見ればお友だちという扱いでした。まして谷崎潤一郎舟橋聖一になると、出版社の御馳走や賞の選考などで偶に出入りをするくらいだったと、新橋の老妓から聞いておりますし、貞子さんも同じ意見でした。
 却って流行作家のほうが、一時的にせよ、お茶屋のお客にはなり得たようですが、それも政財界のお馴染みさんから見れば、やくざで、頼りにはなりません。文学者の書くものに、一流の料亭を描いた場面の無いことからも分かります。『追儺』を読むと、世間的な地位のある鷗外でさえ、新喜楽に招待されて、ものめずらしそうに、あたりの様子をうかがっているのですから。