髑髏について

 雪催いとはいえないまでも、本日も寒い一日ではあった。今年は春になっても関東以西は平年以下の気温だそうで、ひょっとすると4月に降雪の日もあるかとの気象予報である。昔幸田露伴の『對髑髏』の舞台で、豪雪に埋まった金精峠(作品では「魂精峠と俗に呼ぶ木叢峠」)のあたりをさ迷ったことがある。その年の春の連休は各地で予想外の大雪が降ったのである。後からニュースでわかったところでは、大菩薩峠でさえ遭難者が出たほどであった。
 奥鬼怒から丸沼・菅沼に至る途中で吹雪がひどく、積雪で足をとられ前へ進めなくなった。「雪沓」ならぬキャラバンシューズであったが「滑り滑り薄ら氷に向臑疵(きず)つき岩角に頬を擦り、雪流(なだれ)に埋められし木の枝に衣(きもの)を裂き、行けども行けども迷うたりや沼の邊りに出(い)ず」にやや近い経験をした。ただし、この「沼」は、義兄とこちらが、その一軒のバンガローを無理にこじ開けて勝手に泊まった、キャンプ場のあった丸沼・菅沼ではないのだろう。主人公の「露伴」は、金精峠の頂上から下って「温泉湧き出る小川村」を目指しての山旅だったようである。
「江口の君の宿」どころか、不法侵入したバンガローで、二人で壁板をはがして燃やし続けて暖をとり、燻りに咳き込みながら何とか一夜を過ごし、不名誉な遭難を免れたのである。当時金精峠のトンネル工事が進んでいて、朝早くから働いていた工事人夫の一人に湯元までの道を尋ねたとき、やっと助かったという思いがしたものである。
 露伴青年は、「年は今色の盛り、春の花咲亂れたる様に美しき」「お妙」の山中の寓居に招き入れられた。彼女の添い寝の誘惑を必死でこらえた露伴が、聞かされた彼女の身の上は、自分を見初めた「舊藩主の若殿」を狂い死にさせて東京を離れ深山をさ迷っているときに、「道徳高き法師」に出会い、「一念發起して」庵を引きむすんだのだという。朝雪のなかを出立する露伴の足下には、「白髑髏一つ」が転がっているばかりで、住居は幻であった。霊体が後で現われるわけでないから、変則的な一場型夢幻能(横道萬里雄)なのだろう。
 アイにあたる「小川村の温泉宿の亭主」によれば、一年前に「年は大凡二十七八」の女が、「色目も見えぬほど汚れ垢付たる襤褸を纏ゐ、破れ傘を負ひ掛け足には履物もなく竹の杖によわよわとすがり」話すさえ忌まわしきありさまで、山中深くへ姿を没したことを目撃したとのことであった。
 あらずもがなの「縁外縁の後に書す」では、この髑髏も『荘子』至楽篇の「空髑髏」や「百歳髑髏」などに変わるものではないという。読者としては、はぐらかされた印象であるが、「無常の風をからっと乾いた調子で諷する姿勢が明瞭」で、作品は「そういう結び方とは裏腹の情念を山中で解き放ったということ」のようである。(『幻想文学の手帖』学燈社中の、野山嘉正氏解説)  
 さて髑髏について妄想をめぐらせば、どんな過激さも恐怖も商品として取り込んでしまう現代では、髑髏もアクセサリーとして日常のなかで愛でられるようなのである。かつてよく聴いた『STARFRUITS SURF RIDER 』のコーネリアスの指にはまっていたのも、髑髏のリングであった。 
 周知のようにローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)のカタコンベには、夥しい数の骨や頭蓋骨が堂内を飾っている。ここを訪れた70年代は、まだヒッピーの巡礼地であったころで、階段のところに長髪の彼らが何人か坐っていた。一般的に骨装飾といい、カプチン派教会所属のカタコンベによく見られるそうで(『芸術新潮』1994年12月号)、シャンデリアまで骨と頭蓋骨で飾られているのには息を呑んだ。
……中世は、あまりに満たされた生の危険について、こだわったものでした。しかしバロックの感性は、生が空無であることを、憂愁とにがにがしさをこめて、いいつのるのです。神と宗教のみが、その空無を埋めることができるであろう、と。しかし信仰は、下降しはじめてゆき、信仰がもはや支えることのなくなったこの世は、虚無の側へと崩れてゆきはしないでしょうか。じっさい、たえずそのようにうながされていたのでした。
 骸骨とその連れ合いであるひからびたミイラが、想像界のしきいを越えて、じっさいに現実の場へと姿をあらわすということが、おこりました。それも、解剖学の階段教室とか、教会の墓碑のような、社交界のエリートたちにかぎられていた場所にではなく、当時のもっとも庶民のものであった墓所の地下、カプチン教会修道院の地下墓所に、姿をあらわすことになるのです。突然、ないしはほとんど突然のことでしが、西欧世界にほぼ千年にわたって続いてきた伝統を断ち切って、人は遺体を地中に隠そうとはしなくなったのです。……(フィリップ・アリエス『図説死の文化史』福井憲彦訳・日本エディタースクール出版部) 
 旅先のこのローマの修道院で、骸骨寺の修道士から小さいながら質量感のある髑髏を買った。ちゃんと土産用に作られていて、後で笑ってしまったが、それは個人的には「死を想え」の品物ではなく、いまでもたいせつな、ただ一回の欧州旅行の思い出のオブジェなのである。フィリップ・アリエスによれば16、7世紀の社会においては、「人びとは、指輪やブローチやペンダントなどの形で、死のしるしを身につけていた」そうで、それらは、「近代人の、みずから発見しつつあった虚無にたいする感覚を、表明して」いるということである。ただ記号性を取っ払った頭蓋そのものは、「ハムレットが道化師ヨリックの頭蓋を見ながらやったように、あれこれあらぬ思いにふけることはできるが、頭蓋そのものはただそこにあるだけのなんの変哲もない物であって、それを目の前にしてそこにそれ以外のなにかを見たり思ったりすることはできない」。(ヘーゲル精神現象学長谷川宏訳・作品社)
 中世ヨーロッパで盛んに壁画に描かれた「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」についてはそのmacabreという語の語源も、なぜ描かれたのかもはっきりとはわかっていないそうで、小池寿子氏によれば、「復活と再生を目指した善死のための墓所への行列、と解釈でき」、「より善き死、すなわち生前の悪行を悔いて、悪行の証しである肉体の腐敗をあらん限り吐露することにより、浄化された清麗な霊的存在に生まれ変わりうるとする、半ば逆説的な発想」と考えられる。(『死者のいる中世』みすず書房
⦅『山本六三画集』(奢覇都館)より⦆
(わが所蔵の山本六三作品:1979年)
『山本六三画集』には「死の舞踏」と題する絵が二つ載っている。いずれも裸で踊る美少女たちと、鎌をもった若い手下をつれた髑髏の死神が描かれている。透き通るような肌の娘たちの垂らした髪は、花やバンダナで飾られている。〈少女〉という季節のはかなさを暗示する存在として、青いマントをまとった死神が立っている感じである。中世の「ダンス・マカーブル」ではない。この画集では、死の品物はエロスを高揚させるスパイスとしてはたらいているのである。あちこちの頁で、舌も唇も欠く髑髏たちが、少女らの唇を奪い、またその股間に虚無の顔を埋めているのには呆然とする。

幸田露伴集 怪談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

幸田露伴集 怪談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)