ウィリアム・トレヴァー(William Trevor)の短篇コレクション『聖母の贈り物』(栩木伸明訳・国書刊行会)所収の「こわれた家庭」は、面白い。87歳になるミセス・モールビーは、ひとに耄碌したと早合点されないように、言動に慎重に心を配って生きている。二人の息子を戦争で失い、八百屋を経営していた夫もすでに他界している。八百屋の経営をユダヤ人夫婦に譲り、階上の2階・3階でひとり暮らしていた。家族を喪失した哀しみも時が浄化し、永く家族との生活の記憶が染み込んだ自分の居住空間に満足していたのである。
ところがある日、総合制中等学校の一人の教師が彼女のところへやって来て、欠損家庭の少年少女らに働く機会を与えることこそ、地域社会の大人たちの義務ではあるまいかとか、見解を一方的に述べて、ミセス・モールビー宅のキッチンの塗り替えを承諾させてしまう。さて、〈仕事〉に来た少年3人少女1人は、各人勝手に活動する。ミセス・モールビーが希望してもいないのに、キッチンの壁と天井を黄色のペンキで乱暴に、しかもラジオから騒がしい音楽を鳴らしながら塗りたくり、3階の寝室のベッドに潜り込んだ少年と少女が裸で抱き合っている始末。ペンキの染みとりにも疲労した、ミセス・モールビーは、階下の八百屋店主の力で何とか彼らを追い出した。八百屋主人が学校の教師を呼び出し、責任を追及し、跡始末を命じるが、その教師はペンキの染みの除去のみ責任をとって、ミセス・モールビーは「キッチンの塗り替えを無料でしてもらった」し、「終わりよければすべてよし」と述べた。ミセス・モールビーは、自分の息子たちのことをこの教師に話したかったがやめた。わざわざ話しても、耄碌したかと思われてしまうのを怖れたからである。
……そのかわりに、彼女はできるかぎり精神を集中して、さようなら、と言った。わたしは自分自身の意思を子どもたちにはっきり伝えることができませんでした、それはちゃんとわかっています、ということだけを示すために、ごめんなさいね、と言った。子どもたちとわたしの対話はうまくいきませんでしたが、わたしはその失敗をきちんと認識しています、ということを教師にわかってもらいたかった。
教師は、彼女のあいさつをよく聞きもせずに、あいまいにうなずいた。そして、この世の中を少しでもよくしていきたいんですよ、と言った。
「こわれた家庭の犠牲になった、ああいう子どもたちのために。ねえ、モールビーさん」……(pp.67~68 )
現代日本の社会のいたるところに、この「教師」は棲息しているのではないか。