二つの花屋敷

 朝七草粥の1/6(月)は、午後亀戸天神社で初詣を済ませてから都バスで明治通を進み、白髭橋を渡ったところにある介護老人ホームに老母を見舞った。タレントの山口もえさんの実家、仏具の翠雲堂のことなど話題にしたり元気で、1F玄関まで見送ってくれた。帰路は向島百花園そばで下車して京成曳舟駅から東京スカイツリーまで行って、ソラマチ6F「新宿さぼてん」で夕食を摂って帰宅。この向島百花園は一度だけ入園、ハギのトンネルをくぐった記憶がある。いま春の七草が鑑賞できるはずである。
 文化2(1805)年、仙台出身の元骨董屋、佐原鞠塢(きくう)によって多賀藩屋敷跡に開園されたのが、今日の向島百花園のはじまりである。当時は、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷あるいは、花屋敷と呼ばれたようである。
 http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index032.html(「向島百花園HP」)
 花屋敷といえば、現在の「浅草はなやしき」遊園地のことを思い浮かべる。こちらは、駒込千駄木の植木屋森田六三郎によって、嘉永4(1851)年浅草寺境内に最初は植木茶屋として造られたのがそのはじまりである。小沢詠美子『江戸っ子と浅草花屋敷』(小学館)によれば、東叡山主輪王寺宮の庇護の下花屋敷と号するに至ったのである。明治31(1898)年刊行の『新撰東京名所図絵』の記述が紹介されている。
……聞くところによると、六三郎は以前から輪王寺宮殿下に仕え、その気に入られ方はひと通りではなかった。のちに地所を現在地に賜った。初めてこの園を公開し、花屋敷と称した。これより先に向島百花園がすでに花屋敷を名乗っており、紛らわしいという苦情があったが、なにも宮のご許可であるからはばかることはない、といって聞き入れない。花屋敷の号を冒すことにはならなかった。ということは要するに、屋敷に号をつけることは、当時町人の分際でしてはいけない制度であったのに、それをはばからなかった態度を見ても、いかに気に入られていたかがわかるだろう。……(同書pp.37~38)
 六三郎居住の駒込千駄木寛永寺東照社領内にあり「千駄木御林」と称されていた関係で、六三郎は輪王寺宮の庇護を得られたのかもしれないそうである。二つの花屋敷がライバル関係にあったのかどうかは、確かめようがないだろう。ともあれ開園後には、「花屋敷には文人墨客はいうまでもなく、大名たちも雨の夜明け、月の夕など、おりにふれ遊覧していた」と、『新撰東京名所図絵』に記されているそうである。
 この花屋敷が、存亡の危機を何度も経験しながら160年もの長きにわたって存続し、今日の遊園地「浅草花やしき」となったというわけである。NHKBSプレミアム1/5(日)放送の『cool japan(発掘!かっこいいニッポン)』で浅草を特集していて、雷門、仲見世、酉の市などとともに「花やしき」をとり上げていた。外国人らがその魅力を語っていて、少年時代何回かここで遊んでいるので興味深く聴いた。
 http://www.nhk.or.jp/cooljapan/past/140105.html(「NHKBSプレミアムcool japan(発掘!かっこいいニッポン)』」)







 著者の小沢詠美子さんは、都立上野高校32期の卒業生で、このころ都立上野高校社会科には、近世文化史研究のいまは亡き今田洋三教諭(後近畿大学教授)が在職、在学中恐らくその薫陶を受けたものと想像される。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100620/1277043920(「都立上野高校32期同窓会」)