6年前(2006年刊)の雑誌特集であるが、『大航海・58号』(新書館)の「ニート特集」の議論は、今日もその有効性があるのだろうか。この特集の各論考は、当時の大量のニートの登場を、単なる雇用・労働問題でない、いわば文明の根幹にかかわる問題として捉えようと試みている。しかし当然のことながら論者の立場は多様であって、どこかの一点に収斂するような特集にはなっていない。
小谷野敦氏(『「下等遊民」のイデアルテュプス』)は、ニート問題などという「そんな問題が存在するのかどうかすら疑わしいと思っている」として、歴史的視野のなかで論じている。無頼青年が主人公で、ついには人妻を殺してしまう近松門左衛門の人気浄瑠璃『女殺油地獄』などは、江戸時代には不評で上演されず、日露戦争の後屈折青年が増えてきて、明治42年に上演されて以降人気狂言になったのであり、漱石の小説世界の主人公は、あまり詳しく描写されない下女らの世話に支えられた高等遊民の物語だったのであり、子ども一人くらいは養える現代の親の許に、ニートの連中が「パラサイト」できる程度には、高度成長時代以降日本の社会が〈裕福〉になってきたというだけの事象にすぎないとしている。教えられる。たしかに責任ある生活の現実に即して考えれば、そういうことになるであろう。
仲正昌樹氏は、現代資本主義の時代においては、アダム・スミスやマルクスのイメージする「労働」のイメージは実情にあわなくなっており、「ネット上のやり取りを通して構成され、多くのネット・ユーザーから認められるようになった“アイデア”に何かのきっかけで値段が付き、“商品”として流通することが当たり前になれば、家に閉じこもって遊び心でネットにかじりついている人と、毎日会社に通勤して夕方まで真面目に所定の場所で与えられた仕事をしている人と、どちらが創造的な労働者か分からなくなる」という状況になるかもしれないとし、職場という関係性の中での「人格」の承認と、作業に対する対価という両面を交錯させた視点で、雇用と労働の問題を考えるべきであることを示唆している(「スキゾ・キッズがニートになるまで」)。
小倉紀蔵氏の「全能感・無能感・分能感でニートを解く」は、じつに面白い論考である。少年少女が大人に成長するということは、一般的には、強く抱えていた全能感が分解されて、周囲の期待する役割に自己を嵌め込みながら、safe and sound(安全で堅実な)分能感というべきもので満足して生きるようになるということである。「妙に安定しすぎたつまらない人間」であるとしても「成績もよくコミュニケーション能力にも優れた」若者は、たやすくこの「分能感型評価」を受け入れて、社会や職場に適応していくが、幻想としての全能感を棄てきれないか、無能感に打ちひしがれてコミュニケーション不全に陥ってしまうか、あるいは、分能感を極度に意識するあまり、他人への配慮を優先して、排他的な競争原理に苦痛を感じてしまうか、これらのタイプがニートを構成しているのではないかと、氏は考察する。各文化圏の文化や思想は、全能感を押えて分能感に基づく秩序を形成してきているが、この問題は、たとえば、中国でも南宋の朱子学が「士大夫の分能感能力」を究極まで高める思想を開拓したのに対し、明の陽明学左派は、「現成良知」として全能感にシフトした人間観を提唱したように、「人類の宗教・思想の最大の関心事のひとつといってよい」。無能感の持ち主でも、伝統的な東アジアの共同体のように、何か特別な仕事をしていなくてもその存在に価値を認められるような「人為的な紐帯を構築する必要」を述べているのは、小田晋氏が、一部の「統合失調症」の存在が隠蔽されてしまっているとし、ニートにとって必要な「準拠集団としての地域共同体」を主張していることと呼応しよう。小倉氏の議論で、怖いところは次の指摘である。社会が、分能感をニートの若者と、日本という「ニート的」とされる国家に求める一方では、
……他方では、全能感ネット型の若者は、自己を「表」に引っ張り出して応分の役割分担をさせようという動きには抗戦しつつ、自らの聖域であるネット空間では果敢に、自己を分能感型として利用し奉仕させるであろう勢力、すなわち「マネー」と「ナショナリズム」の勢力にその多くが吸引されている。……