陽明学的心性

 小島毅東京大学准教授の『近代日本の陽明学』(講談社新書メチエ)は、知的刺激に富んだ本である。陽明学的心性をキーワードとして俯瞰された近代日本思想史試論といえるだろう。王陽明の「知行合一」とは、「知に対する行の優位を強調するのではけっしてない」のであり、学ぶ者それぞれの病弊に応じた「対症薬」としての方法論的特徴をもつ、「着実な実践から遊離した空疎な思弁哲学」とカントのいわゆる「適法性」に相当する「律法主義・功利主義・因習偽善」に対する救済の原理として提起されたもので、「知と行が本来的に一つの渾然たる心のはたらきの抽象化された二側面」である、との大西晴隆氏の解説(「人類の知的遺産」25『王陽明講談社)を思い起こしても思い起こさなくても、この書は、あたりまえであるが自己完結的な作品として読むことが可能である。そして面白い仕上がりになっている。
 その起源が「神道」にはなく、「儒教教義に基づく社」である靖国神社の祭る「英霊」とは、そもそも「維新」に貢献した戦死者・殉難者のことであり、「英霊」なる言葉自体も直接的には水戸学の藤田東湖の文章に典拠を置いている。小島准教授によれば、この水戸学と日本陽明学は、人物の交流・相互影響をみても交叉している。さらに明治になって、この精神史的水脈に理念化された「武士道」も加わって、「日本精神」の伝統なるものが醸成されることになる。
 いったいに「仏教との訣別」から始まった「江戸時代の儒教史」は、一般的に神道儒教的に理論化した朱子学派、陽明学派、古学派の三つ(さらに、考証学派、折衷学派を加えて五学派)に分類されるが、実はこれは、明治時代の井上哲次郎によって定着した方式である。つまり、江戸時代にはそのような認識はなかったのである。(第一学習社版・高校『倫理』教科書の「江戸思想」にそのことが明記されてあったのは、執筆陣に小島准教授が加わっていたからであろう。)
 そもそも陽明学派という思想家の系列の設定がおかしいようだ。大坂で蜂起した陽明学大塩平八郎について、准教授は述べている。
『大塩の考えが陽明学者になってから変わったのではなく、そういう考え方をするする人だったから陽明学に惹かれたのである。そして、これもまた、陽明学者の多くにあてはまることである。
 つまり、こういうことになる。陽明学者は陽明学を師匠から伝授される必要がない、と。中国でも日本でも、高名な陽明学者は朱子学の学習によって陽明学者になる。教祖・王守仁(陽明)にしてからがそうである。彼は熱心に朱子学を学び、その精神を実践しようとし、挫折し、悩み、そして悟った。「理を心の外に探し求める朱子学のやり方は根本的に間違っている。理とはわが心のはたらきにほかならないのだ」と。』
 小島准教授の「陽明学的心性」は、マックス・ウェーバー風にいえば、「結果倫理」ではなく「心情倫理」にあたるものであろう。明治になって、この「陽明学的心性」は、キリスト教プロテスタンティズム)やカント哲学そして社会主義思想の受容まで基層で支えていたのではないかと分析している。見事な考察である。
『彼らが信じた「陽明学」を「陽明学ではない」と断言的に否定する権利は、わたしにはない。彼らが求めていたのは、王陽明その人の教説に原理的に忠実に生きていくことではなかった。彼らが置かれた時代背景の中で、生活指針となりうる過去の思想的遺産であった。それは「彼らの陽明学」であった。ここで私に言えることは、「彼らの陽明学は、王陽明陽明学ではない」ということだけである。』
 祖先にその学問で水戸藩に仕えた青山家をもつ社会主義者山川菊栄と、水戸天狗党の蜂起加担の咎で切腹を命じられた宍戸藩主の血脈をもつ三島由紀夫を対比的に描いた終章は、この書のモティーフを示して出色である。

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)

近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の泰山木の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆