ネットで哲学

 経済学者の池田信夫氏は、マイケル・サンデル(Michael J.Sandel)の『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)が20万部も売れていることについて、「これはおそらくテレビの影響で、彼の問題意識は日本では共有されていない。コミュニタリアンアメリカで出てきたのは、ロールズノージックに対するアンチテーゼとしてなのだが、日本にはアメリカのような意味でのリベラルもリバタリアンもいないからだ」と、氏のブログ(8/12)で述べている.なるほど、さすがこの本の推薦者宮台真司氏などより参考となる見解である.この書の第1章は、早川書房のサイトでダウンロードできる。さっそくプリントアウトしたが、むろんこれでこの本を読んだと吹聴するつもりはない.
   http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51467160.html (池田信夫氏のブログ)
   http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/112569.html (早川書房ダウンロード)

 古典ギリシア哲学の原典を翻訳紹介・研究のサイト「Barbaroi!」では、法哲学長尾龍一氏の旧稿「『ポリテイア』のトラシュマコス・古代ギリシャにおける政治的シニシズムの一考察」を載せている.西洋思想史における正義論については、このあたりから考察・勉強しないとならないだろう.
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/sophists/cynicism1.html (Barbaroi!)
『なお、インターネット検索というと、あくまで情報の入手に限定され、知識の習得という面では依然として書物にかなわないとの理解があるが、そうでもあるまい。プラトンに及ばないとしても、クセノポンの著作もソクラテス理解の補助線として必要であろう。いままで一介の読書人としては、岩波文庫の『ソークラテースの思い出』しかさしあたって読めなかったが、サイト「バルバロイ」では相当な〈読書〉が可能なのである。ネット世界をナメてはいけない。』(HP:04年9/4記)

 ネットを通じて哲学的課題に関して多くの情報が入手できることは、ありがたいが、結局はみずから考えるほかはないのである。歴史に学ぼうとする場合は、「歴史は偉大な師である。しかしすぐれた弟子は少ない」との教訓を噛み締め、哲学に学ぶ場合には、「哲学から学ぼうとしても、偉大な師は少ない」と認識すべきであろう.この8/15で、生誕225年(1785年マンチェスターにて生誕)のトマス・ド・クインシーは、ホンモノの哲学者は命を狙われるものだ、と考えていたのだろうか。かつて『トマス・ド・クインシー著作集』第1巻(国書刊行会)について、HPに記したことがある。(2004年8/15記)

「藝術の一分野としてみた殺人」(鈴木聡訳)は、殺人という明瞭に非倫理的・道徳的な行為を嗜好の対象としてとらえることも許されるのではないかとの前提で、過去の殺人の事例を〈藝術的完成度〉で論評しあう「紳士たる素人愛好家たち」協会での講演を公にし、「会員らのあいだに恐慌を惹き起こ」して同協会の命脈を絶ちたい、との趣旨でその講演内容が発表されるという、手の込んだ作品。作者自身が殺人者を称讃しているなどと見なされたら社会的立場を失うであろう。
「最初の殺人はどなたも御存知でしょう。殺人の発明者として、当該藝術分野の始祖として、カインは第一級の天才であったに違いありません。」などと述べて、歴史上の殺人の事例をあげてコメントする。次のようなところは、歴史的事実かどうかわからないが、面白い。暗殺には、政治家を狙ったもののほかにもう一つあるとして、
「それは、17世紀初頭から流行しはじめたもので、それこそまさに私を驚嘆させずにはおかぬもの、すなわち哲学者の暗殺のことです。紳士諸賢、過去2世紀間、卓越した哲学者のすべてが殺され、あるいは少なくとも殺されかかったことは事実だからです—かりそめにもある人が哲学者を自称しながら命を狙われることがなかったならば、余人は、その人の言が無内容であることを確信するにいたるほどなのですから。」