「退屈について」のブログ再録

1)小谷野敦氏の『退屈論』(弘文堂)第六章「文学と退屈」では、まず人間と人間の関係が織りなすドラマの深層のメカニズムは、他人には「要約不可能」であるとし、チェーホフの戯曲作品などのすぐれた(通俗ではない)言語藝術においては、この根源的な「要約不可能性」を十全に利用していて、それ故、生活経験を積んだ大人の読者&観客には、たとえ結果がわかっていても、退屈せずにその作品の細部を楽しむことができるとしている。そして、文学者&文学研究者の社会的位置について考察を進める。

 中国にあっては、「たとえばシナの漢詩人たちは、たいていは士大夫、つまり政治家や官僚であるか、さもなくば科挙に落第してその鬱屈を紛らわす者たちだった」。日本では、『最初に職業的文学者としての意識を明確にしたのは、おそらく藤原定家だが、その定家にしてからが、統治機構の中で思うように出世ができなかった藤原家末流の下級貴族であり、「紅旗征戎(せいじゅう)わがことに非ず」と二度も日記(『明月記』)に書きつけたのは、いかにも現実政治から遠ざけられたものの屈折を示していると見える』とし、西洋においても、「文学者というものが文学者として自立した存在と考えられるようになったの」は、「十九世紀半ばから後半に起こった事態でしかない」ということである。

 文学・藝術の自立した価値(ラール・プール・ラール=l'art pour l'art)を主張する藝術至上主義は、十九世紀末ごろに成立した神話であって、作品が「本当に作者や著者以外の誰の目にも触れなかったら、まったく存在意義はないから」間違っている考え方である、としている。大いに共感をもって読める。

『「純文学」は、もはや現代の一般人には、退屈な小説の代名詞のようになってしまい、確かに芥川賞受賞作はある程度読まれるけれど、それは一般人が「文学」に対して依然として持っている崇拝の念、というより普段は敬遠しているという罪悪感の現れでしかない。「小説」が、多くの読者を獲得している間は、作家はその社会に与える影響力のゆえに、満足感を得られる。しかし、それが次第になくなっていったら—。』(2011年5/18記)


2)ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセンの『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳・集英社新書)は、退屈という、祖型はあっても「近代に特有の現象で」「ほとんど誰にでも関わっていて、現代西洋社会のもっとも特徴的な現象の一つ」を根源的に追求している。もちろん現代日本も同じ現象が起きている社会に含められる。なぜなら、

……退屈はどう考えてもユートピアの一部ではないが、しかし、僕たちが「ユートピア」に生きていることが退屈なのである。……

 ここで「ユートピア」とは、欲望があらかた実現可能になってしまった社会ということであり、現代日本は二極化が進行しつつあるとはいえ、「不足」しているものへの渇望は全体としては弱まっているだろう。「ユートピア」の到来とは、意味の喪失という事態であり、ここに退屈が発生する。さて退屈とはとりあえずは、次のような状態を指している。

……人は退屈すると、その時間に何をしたらいいのかわからない。僕たちの能力すべてがいわば休閑状態で、どう使ったらいいのかまったくわからないからである。……

 流行に身をゆだねる生活も退屈から解放されることはありえない。

……現在のように流行に支配された世界では、僕たちはつねにより刺激的なものに襲われるのだが、これもまたさらに退屈になるのがおちである。あるルールが解放されると、また別のルールがその上を行き、けた外れになった個性はよほど注意しないと抽象的な没個性に変わってしまう。……

 著者は、ハイデッガーの「退屈の現象学」(『形而上学の根本諸概念』)を紹介する。ハイデッガーによれば、退屈にも三つの形式があるとする。第一形式は、「状況の退屈」と著者が名づけるもので、空港で飛行機の搭乗と離陸を待っているときや講義など、退屈なものがはっきりしている場合だ。第二形式は、パーティーなどそのときはとても充実し楽しく過ごしているのだが、後から無駄な時間を過ごしていたと感じるような退屈をいう。「空しい」という意識である。よりハイデッガー風には、「本来的自己が置き去りにされている」との意識である。第三形式の退屈は、これといった状況とは結びつかない「深い退屈」であり、われわれは「誰でもなくなり、自分が空になった状態を体験できる」退屈である。ここからの自己努力によって、自由で本質的な自己の意識への道を開く可能性をみるわけである。その自己努力の一つが「憂愁という根本気分」のなかでのみ成就する哲学のいとなみということになる。

 ハイデッガーの難解な処方箋よりも、著者ラース・スヴェンセンの巻末近くの言葉のほうに惹かれる。

……もちろん僕は、本当の自分を創るための魔法の言葉などあげられない。それでも、自分について熟考することは自分自身のためにもぜひやってみるべきだと思う。その場合、他人のやり方を適用しないように心がけることだ。哲学は、僕にとっては熟考することより題材が少ない。哲学ではある主題を教えることはできるが、熟考にはそれぞれが一人でしなければならない何かが残っている。ウィトゲンシュタインによると、「哲学の仕事は―建築の仕事のように多くの局面にわたるものだが―本来はむしろ、自分自身にかんする仕事である。自分をどうとらえるのか。ものをどう見るのか。(ものにどんなことを期待しているのか。)」自分自身のために考える作業を他者に依託するのは完全に間違いだろう。……(2014年4/12記)


3)小浜逸郎氏の『死にたくもないが、生きたくもない』(幻冬社新書)は、いわゆる〈団塊の世代〉に属する著者が、定年退職してからも「枯れることが許されず」、医師の日野原重明氏のように「イケイケ」の生き方を理想として求められるのは、かなわないと表明したものである。病院は高齢者の患者で溢れている。平均寿命が延びたなどといっても、驚くような例外は少なくないにしても、ほとんどは病気を抱えながらかろうじて生きているのが実情だ。

 定年退職してからの趣味などに情熱を傾ける「悠々自適」の生活が奨められるが、それに対しての小浜氏の反発には、大いにとはいえないが共感を感じるところもある。

……人間はすぐ退屈する動物であり、自分のやっていることの「意味」を考えてしまう動物である。趣味に生きるといっても、そんなに一つや二つの趣味に没頭して長い年数を明け暮れる人がたくさんいるだろうか。「趣味」が実感できなくなったとき、どうすればよいのだろうか。

 そば打ちをやろうが、山歩きに精を出そうが、短歌サークルに属そうが、土をいじろうが、そこで得られる満足感は、ある年齢以上になればたかが知れている。

 また競争心をかき立ててくれるような趣味であっても、しょせん大部分はアマチュアの域を出ない。これから一芸に秀でることができる人など、ごくわずかにすぎない。

 それを悟ったとき、満足感を持続させられるだろうか。しだいに募ってくる虚しさを押し殺せるだろうか。……(2013年10/4記)