佐伯啓思「新型コロナウイルスに翻弄される現代文明」

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 現在京都大学こころの未来研究センター特任教授の佐伯啓思氏監修『ひらく❹』(エイアンドエフ)の巻頭は、佐伯啓思氏の論考「新型コロナウイルスに翻弄される現代文明」である。さっそく読む。論旨は以下。
 21世紀の文明社会の特質として、1)多くの富を生むための過剰なまでの競争、2)地球全体を市場化するグローバリズム、3)個人の自由を前提とした民主主義、4)情報装置は恐るべき情報量の瞬間的処理を可能としたこと、5)とてつもない巨大都市化をもたらしていること、などがあげられる。カッシラーの述べる「ホモ・シンボリカス」としての人間の能力が最大限に開花したということである。この特質が、今回の新型ウイルスのパンデミックに一定の作用を及ぼしているのだ。
①急速な世界的拡散はグローバリズムによるところが大きく、サプライチェーンや人の移動で成り立つ今日のグローバルな市場を機能マヒに陥れた。
②「不確定性(アンサーテンティ)」の事態で政府自体が手探りであるにもかかわらず、情報化と結びついた民主政治においては、過度な情報流通の中人々は政府に対して過剰な期待をかけ、その責任を追求する。政府と国民との間の相互的な信頼関係が崩れてしまうのである。
③現代の科学は極度の専門分化をきたし、専門科学者の権威を高めたが、専門分化によって対象自体が複雑になればなるほど、専門家間での見解の相違が生まれ、そのことでかえって解決を困難にしかねない。
 したがってたんなる感染症への病理学的対応で済む問題ではなくなっており、「新型コロナ現象」として「現象」全体への対応が求められているということになる。
 問題の根本は、レオ・シュトラウスの言う「近代のプロジェクト」が破綻をきたしているということである。科学が発展し、自由や民主主義が実現すれば、世界に普遍的な幸福がもたらされ、完全に公正な社会が実現できるだろう、という西洋近代社会の「近代のプロジェクト」の目的も理念ももはや確信が持てなくなっているということなのである。ハイデガーの「算定性(計算可能性・予測可能性)」「迅速性」「大衆性」などのキーワードを紹介して、生の質や善きもの=価値を問わない、近代・現代文明を批判し、「生存領域」の活動と区別される「遊び」の活動からある種の神聖さや宗教的雰囲気をまとった面が失われ、「遊びの幼児化」あるいは「文明の幼児化」が進行していると、ヨハン・ホイジンガの文明批判を紹介している。
「必要」を越えた「過剰」にこそ文化の根があるのだが、この「過剰」の領域がいま「不要不急」の事柄として国民(あるいは住民)一人一人に「自粛」が要請されている。近代文明社会においては「過剰」あるいは「遊び」の領域そのものが市場原理に侵食され、「不要不急」は利益を生み出す経済活動の空間と化し、その場へカネを落とす「消費者」を大量発生させたのであった。
   したがって新型コロナ現象が突きつけるのは、大きな価値の転換、生活の仕組みの転換である。

……近代以後、われわれは、常に「より多く、より大きく、より速く」を求めてきた。拡張することに価値があるとしてきた。「最大の幸福の追求」から「そこそこの満足」への転換である。コロナが示したのは、こういう近代的拡張主義的価値からの転換であった。(p.22) 

   そしてそれは「個人の生命を守るのは政府の役割」で「生命の安全を保てなければ政府を批判する権利がある」というだけの、死生観ともいえない死生観について見直す絶好の機会を与えてくれている、といえるのである。
 いわばどさくさ紛れの近代文明批判とも批評できるが、特集でもとり上げているレオ・シュトラウスの政治哲学について知りたくなった。

f:id:simmel20:20201211133227j:plain佐伯啓思『貨幣・欲望・資本主義』(新書館)2000年12月

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