浅草オペラのこと


東京新聞』1/9(火)「元号をめぐる:大正2ーおしゃれなモガ輝く」から
 わがブログ「『鮫人(こうじん)』の浅草オペラ観」(2015年4/21記)で、浅草オペラについて触れている。再録しておく。
◆観光地としての浅草に注目が集まり、多くの外国人旅行客の来訪もあって、賑わいをみせているようである。むろん悪いことではないが、持続する文化的活力が備わっていないと、飽きられ衰退しないとも限らない。

 それはそれとして、今年は谷崎潤一郎没後(1965年7/30没)50年にあたるとのこと。川端康成の『浅草紅團』とともに、大正から昭和初期にかけての浅草の風景と坩堝ともいうべき文化状況を窺うには、谷崎潤一郎の『鮫人』がある。

 浅草オペラを興行としている浅草劇場の楽屋にまで押しかける服部という27才の無職の青年は、「浅草の本願寺の裏の方にある、松葉町の露地の奥の長屋」に住んでいる。この「松葉町」はいまは隣町と合併して「松が谷」となっている。こちらは、少年時代・青年時代をこのあたりで過ごしていたので、その設定じたいに親近感を覚えるのである。服部が惹かれる「ソプラノ唄ひの林眞珠と云ふ少女」についてはさておいて、浅草オペラについての記述をみよう。浅草劇場への道順のところが面白い。

……松葉町の服部の家から其の劇場へ行くには、合羽橋を渡って本願寺の裏通りを過ぎ、西洋料理屋今半支店の角へ出て其處の道路を横切り、道路と公園とを劃して居る溝を跨げば直ぐ取っ付きの右の角――恰も觀音劇場と向ひ合ったところにあった。……(中央公論社版『谷崎潤一郎全集・第七巻』p.90)

 その觀音劇場を拠点にしてすでに浅草オペラは隆盛を極めていたのである。そこへ浅草劇場が出現し、梧桐寛治が主宰する「新劇と歌劇とを打って一團と」する興行が加わって渦巻きが大きくなったという展開。

……浅草で歌劇「ファウスト」が演ぜられ、「椿姫」が演ぜられ、「カルメン」が演ぜられたと聞いても、別に驚くにはあたらない。なぜなら其れはグノーの「ファウスト」でなく浅草の「ファウスト」であり、同時にヴェルディやビゼエの「椿姫」「カルメン」でなく浅草の其等であるから、――前にも云ったやうに総て此處へ這入り込んだ物は直ちに「公園獨得の物」に化けるのであるから。……(同書p.86)

 その観客とはどういう人びとだったかといえば、

……オペラを見る者は学生ばかりで浪花節を聴く者は熊公八公ばかりだと思ったり、又五郎に感心するのは守ッ児ばかりで西洋物を喜ぶのは良家の子弟ばかりだと思ったら間違ひになる。職人がカフェへ這入ったり、ハイカラが縄暖簾をくぐったり、娘が鮨の立ち食ひをしたりする。彼等の趣味は始めから斯くの如く出鱈目でとんちんかんになるのである。現に根岸興行部でやって居る「三館共通」と云ふ方法は、此の見物人の出鱈目に附け入り且つ出鱈目を附け上がらせて居る。試みに終日公園を遊び歩いて帰って来た者に聞いて見るがいゝ、「何か面白い物を見たか?」「何か旨い物を食ったか?」――さうしたら彼等は一往は「面白かった。」「旨かった。」と云ふであらうが、全體「何が面白かったのか。」「何が旨かったのか。」と問はれゝば恐らく即座には答へることが出来ないに違ひない。彼等は云ふであらう、――「何か知ら面白かったのだ。」「何か知ら旨かったのだ。」と。それは實に正直な答である。公園には何か知ら面白いものがあり何か知ら旨いものがある、たゞ其れだけを見物人は知って居る。何處に、如何にしてそれらがあったかは見物人は知らない。……(同書p.84)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20150421/1429602544(「『鮫人(こうじん)』の浅草オペラ観」)
 谷崎潤一郎の『鮫人』と併せて、直接浅草オペラを扱ってはいないが、当時の浅草の文化的雰囲気を窺うには、川端康成の『浅草紅團』も、読む必要があろう。わがブログ「1930年代の半グレ=浅草紅團」(2013年3/8記)で取り上げている。

◆2/25(月)に、東京両国シアターΧ(カイ)にて、劇団「ドガドガプラス」のマチネー公演、望月六郎演出『浅草紅團』を観劇。初めて見る劇団であるが、「歌って踊れる浅草の劇団」だそうである。田原町には〈老舗〉の「演劇集団円」がある。HPによれば、「先人たちがつくった浅草レビューの世界感(世界観?)を踏み台」にして、現代演劇界に新風を巻き起こしたい志があるらしい。昔(1968年)浅草国際劇場で、倍賞美津子小月冴子が出たSKD(松竹歌劇団)のグランド・レビューを観たことがある。この劇団を応援したくなる。
 さてブログの観劇記が今ごろになったのは、川端康成の原作『浅草紅團』を未読であったからである。講談社文芸文庫の『浅草紅団』を購入、新聞小説であったためか、まるで当時の浅草の街そのもののように路地多く雑然としたこの小説を一気に読了するのは、至難であった。「東京の心臓(添田唖蝉坊の言葉)」であった浅草の街の半グレ集団「浅草紅団」の女ボス弓子(変装して少年明公にもなる)と、捨てられて気が触れてしまった姉の千代子のその恋人だった赤木の三人をめぐる物語が核となって、1930年代の大不況を背景にした浮浪者・売春婦・犯罪者たちの行動が風物詩のように描かれている。「ごった返す人間の渦巻の中にある」浅草の恐ろしさを描出しているのだ。形式としては、小説家=私が浅草の街を徘徊しつつ取材しての記録という展開である。この小説において文学的にすぐれているのは、隅田川に浮かぶ船の中での弓子と赤木の抱擁の場面であろう。

 自分を狂ってしまった「姉さんに見立てて、恋のお稽古をしていた」弓子が、亜砒酸の毒の数粒を赤木の掌に落とし、 

……「死ぬなんて嘘としたって―死んでもいいわって、ただ言うより、毒薬をポケットに入れて、死ぬわって言う方が、恋の喜びは強かない? ―あんたにこれ飲ませちゃうから。」

 赤木が苦笑いして、薬を棄てそうにすると、

「いやよ。勿体ないわ。」と、弓子は男の掌に口をつけて丸薬を銜(ふく)んだが、美しい前歯でぽりぽり噛みくだきながら、眼一ぱい青く微笑んで、瞬かずに男を見つめていた。―と、いきなり男の首に飛びついた。唇を押し入れるように接吻したのだ。―男は毒薬に舌を刺された。……

 「ドガドガプラス」の舞台では、原作を自由に再構成(創造)し、カジノ・フォウリイのレヴュウを見せ場としていた。

……「和洋ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、東京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。

 エロチシズムと、ナンゼンスと、スピイドと時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と―。……

 まさに「歌って踊れる」のキャッチフレーズ通りで楽しめた。軍服姿の神崎栄子が、服を脱ぐと妖艶なダンサー、ベリーダンスを踊ってみせたが、衝撃的で演じたHITOMIさんに見とれてしまった。

 大正の大地震の後、大不況の中で戦争の跫音が聞こえてくる、そんな不安を漂わせながら、群舞のパワーとエロスが炸裂、演出家&振付師以下みなさまごくろうさまと声かけたい公演ではあった。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130308/1362732050(「1930年代の半グレ=浅草紅團」)