高橋弘希の小説

(『東京新聞』夕刊9/29「大波小波」)
 高橋弘希(ひろき)の『指の骨』は読んでいる。女性のことに触れたわずかな叙述もあり、その微かな華やぎに読者は救われる感想をもった。新作については、この紹介文ではまず読む気が起きない。2015年2/2付のブログ記事を再録しておこう。

高橋弘希『指の骨』(新潮社)を読む
高橋弘希『指の骨』(新潮社)を読了。1979年生まれの作家の戦争文学ということで購入。作者の戦争体験の有無など気にならなくなるほど筆致に迫真力あり、感心させられた。南太平洋のどこかの島の野戦病院を主とする場所で、負け戦の過程で次々戦死・病死していく戦友との交流と別れを、そしてみずからの孤独な最期を色彩豊かな南方の自然のなかで描いている。視覚に偏らず、嗅覚、触覚、味覚を動員して主人公「私」が対峙している世界と、極限の苦痛に耐えねばならない身体および心の深層を捉えようとしている。題名の「指の骨」は、戦地で生き残った者たちが内地に形見として持参するために、戦死・病死者の指を切り落としたことに由来している。遺体から切断するところは、感傷を交えず描写されている。

……生きている患者は、あぁ、とか、うぅとか呻いた。私の右隣に寝ていた患者は、呻かなかった。衛生兵は脈と瞳孔を確認した後、その患者の掌の下にベニヤ板を敷いた。小刀を手にすると、人参でも切るようにして、患者の指をゴトリと切り落としていった。

「指を切り取ってもらえるヘータイは幸せだよ」

 左隣に寝ていた患者が、身体を起こして呟いた。……(p.12)

 主人公が突然思い起こす少年時代の事物、「玩具店のショウウインドウに見た、ピノキオの操り人形」とか「いつか盆踊りの日に、祖父から」買い与えられた「硝子風鈴」など、当時のことがよく調べられていて驚いた。一般的に小説の味わいは、些細なことを疎かにしていないところにあるのだろう。戦地での苛酷な生活と対比させて、戦争の無惨さがいっそう際立って印象づけられる。

 食べ物についても抜け目なく作品中に配置している。病舎での「飯盒の蓋に飯を貰い、飯盒に薩摩汁を貰う。飯には芥子菜の漬物がのっている」夕飯の日常に、あるとき密林の奥の現地人からマンゴーやバナナを提供されたり、敵機が敗残兵用に落としていった食糧缶のコンビーフを入手したりする場面は、微笑ましい。

 この小説の魅力は、夜は南十字星の輝く空と、植物、そして虫たちの紹介にもある。最も気に入った描写は次のところ。

……坂を上りきると、目の前に夕陽のそそぐ畑が広がり、虫の音が溢れた。クビキリギリスのように長い時間をかけてジーと鳴く低い声。鈴虫のようにときどき凛々と鳴く高い声。それらの鳴き声がいくつも重なり、合唱になっている。畑で鳴いている虫は、日本に生息する虫とは違うのだろう。しかし西日を浴びる玉蜀黍(※トウモロコシ)畑や、夕風に揺れる小豆畑を眺めながら、その合唱を聞いていると、その一角だけは内地なのではないかと錯覚する。玉蜀黍の雄穂の先端には一匹の蜻蛉が留まっていた。蜻蛉に似た虫かもしれない。透き通る翅を斜めに下ろし、夕焼けに向かって頭を傾げていた。……(pp.56〜57)

 色彩の表現も多彩であるが、「滅紫(けしむらさき)」の色というのは、恥ずかしながらはじめて知った。

……煙草は赤い火口を残したまま、見晴台から薄闇の砂浜へと零れ落ちていった。滅紫の底で一瞬の小さな火花が散った。……(pp49〜50)

 http://www.color-sample.com/colors/197/(「滅紫の色見本」)

 むろん戦争小説であるから戦闘の場面もある。主人公「私」は、密林で濠(※オーストラリア)軍兵士と掘ったタコ壷の中から相対し、銃弾を打ち抜いて倒している。この体験をめぐる想念が作品を貫いているのである。

 さてこの戦争小説を戦争(戦場)体験派は、どう読むであろうか。NHKドラマ『ゲゲゲの女房』でも南方の戦場が描かれた、その主人公のモデル水木しげる氏の感想を伺いたいものである。 
 ※水木しげる氏は、2015年11/30逝去されている。