室生犀星の小説

 
 石川県金沢市室生犀星記念館の館長、笠森勇氏より近著『犀星の小説100編—作品の中の作者』(龍書房)のご恵投をいただいた。月刊『花粉期』(藤蔭道子編集)に永きにわたって連載された論考をまとめたものである。犀星の「小説というのか随筆というのか」判然としない変幻自在な、どの作品にも必ず作者=犀星(もしくは近い分身)が語られているとの認識に基づき、「作品のなかに顔を出している作者自身の姿を追って」求め、「犀星の文学世界が多少なりとも」明らかになることを意図して本書としたとのことである。副題もそのことを示している。
 http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/(「室生犀星記念館」)
 この著者を前にして熱心な読者とはいえないこちらは、初期作品については別にして、とりあえず「生涯の垣根」、「あにいもうと」、「杏っ子」、「かげろふの日記遺文」、「蜜のあはれ」、「火の魚」、「われはうたへどもやぶれかぶれ」などの論考を読んだ。
あにいもうと」の妹もんは、「養母ハツから得ている」キャラクターの「男をやっつける逞しい女」で、「こういった大胆で自由な世界は、戦時体制に向かってゆく閉塞状況の中で相当好評を博したものと思われる」との指摘。「生涯の垣根」では、「旅をしなかった芭蕉たる犀星は、庭の土を掃き清めることでたえず新しい旅を求めている」との記述。主人公が垣根を作らせた植木屋の民さんの息子に秋彦と名づけたこと。「杏っ子」では、作中娘の杏っ子が離婚して、主人公の父の元へ戻ってくると、父は「むしろ恋人と再会したかのごとき喜びに満ちている」との記述。「かげろふの日記遺文」では、「二人の女が兼家に迫る場面」にはドストエフスキーの『白痴』の投影があるとの見解がすでにあること。「蜜のあはれ」とは畢竟、女ひとの象徴としてのお臀のもつ「あはれ」を意味しているとの指摘。「火の魚」では、「魚と女との類縁、魚になじんだものにしか理解できない官能的な共通性」との指摘。「われはうたへどもやぶれかぶれ」では、「老醜さえも美ととらえるものがここにある」とはじまり、病院での看護婦とのやりとりの過程で「例によって強がりと、わがままとそして自虐ぶりが露出する」との叙述。以上印象に残ったところを記してみた。
 未読の作品も、この書をすぐれた水先案内として読んでみたいものである。
 なお東京両国のシアターΧ(カイ)で演出家川和孝氏の企画・演出により継続上演されている「日本近・現代秀作短編劇100本シリーズ」の一つとして、2010年3月に室生犀星「茶の間」が舞台化されている。この観劇記を載せたわがHP記事を再録しておきたい。
◆昨日は、東京両国シアターXにて「第30回名作劇場」の劇場企画公演『茶の間&圍まれた女』をマチネーで鑑賞した.どちらも一幕物で、前者が室生犀星、後者が田口竹男の作である.室生犀星の戯曲上演を観るのは今回がはじめてである.かつて日本オペラ協会公演のオペラ『舌を噛み切った女』(於新宿文化センター)を観たことはあるが、これは小説を原作に原嘉壽子が台本・作曲を担当した舞台であった.だいたい犀星の戯曲はレーゼ・ドラマとして見なされ舞台化されることが稀であったのだ.
 ちょうど今頃の季節のお話で、タイミングのよい公演であった.昔愛し合っていたらしい男が、母と同居する女の家へ、亭主のまだ帰宅していない雪の夜訪問してきた.女は一瞬心ときめくが、二人の間には所在ない時間が流れ、男が去っていく.帰宅した夫に、女は外に出て出前を頼み、丼が届いてから夫の膳を挟んで温かいときを過ごす.それだけの話だが、味わいがあった.先に床に就いた夫に、「いま行きますよ」と言って、鏡に向って薄化粧をする女の可憐さと艶かしさに、「おっ犀星だ!」との感想をもった.
 企画演出した川和孝氏のパンフレット解説「室生犀星の残した戯曲」のほかに、国会図書館所蔵の某雑誌に、川和氏のより詳細らしい論考があるとわかった。登録手続きをすればコピーも郵送で入手できるとのこと、ありがたいことだ。さっそく手続きをとった.(2010年3/11記)  
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100624/1277369526(「NHKドラマ『火の魚』」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110924/1316857839(「志らく演出と室生犀星」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120124/1327388253(「雪と室生犀星」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120419/1334826501(「『室生犀星文学アルバム』の出版」)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、白椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆