新井白石と菩提寺


 秦恒平の『親指のマリア』(筑摩書房)、「潜入の章」〈勘解由Ⅰ〉へと読み進む。「聖母の章」〈ヨワンⅠ〉では、語り手がシドッチ神父(の視点)に寄り沿うように物語を展開させていたが、この章では、新井白石(勘解由)に寄り添うように語られて展開。20世紀文学においてもドス・パソスの『USA』や、J.P.サルトルの『自由への道』などで、物語の設定としては、読み慣れていないことはなく、違和感はあっても東西文明原理の対決をテーマとしているだろうこの小説に限っては許容すべきか。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20160209/1455006695(「安藤宏『「私」をつくる・近代小説の試み』を読む:2016年2/9」)
 さて新井白石と寺との関わりについて興味が湧いた。新井伝蔵(白石の幼名)のころ、寺に隠居している両親を訪ねるところ。
……延宝五年(1677 )二月末、実の親同然に愛してくれた主君利直が死に、死後の内紛に彼は本意なく連座して土屋家を追われた。浅草報恩寺にすでに隠居し、母ともども髪をおろしていた父新井心斎への扶持も奪われた。そればかりか前途ある二十一歳の彼は、旧主家の許可がなくては他家に仕官のかなわない、いわゆる「主家御構ひ」という報復を受け、困窮の極に妹まてと死別し、翌年には母にも死なれた。……(pp.132~133)
 この浅草報恩寺のことでは、その3ページ前に、父方の身寄りについて「懇意な浅草の報恩寺内高徳寺の以前の住持」が小僧のころ、「父上」の従兄弟と称する人物が訪れたことを話しているとの件がある。両親が隠居していたのも、報恩寺内高徳寺であったのか。報徳寺は、白石(伝蔵)が「浅草田原町まで破れ傘を傾けて両親の見舞いにたちよ」っているとある。Wikipediaによれば、明暦3(1657)年、明暦の大火後、八丁堀から浅草本願寺東門内の広沢新田に移転している。報恩寺は文化3(1806)年、文化の大火により浅草本願寺とともに焼失し、文化7(1810)年現東上野に移転して、坂東報恩寺という通称で現在に至っているとのことである。驚いた、浅草田原町と東上野のちょうど真ん中の町で少年期・青年期を送ったので、懐かしさを覚えた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/報恩寺_(台東区)(「Wikipedia:報恩寺」)
 http://www.tesshow.jp/taito/temple_eueno_hoon.shtml(「猫のあしあと:報恩寺」)
 高徳寺は、報恩寺の寺中寺であったのだ。現在は中野区上高田にあり、そこに新井白石ほか新井家の墓があるらしい。こちらは永井荷風のような展墓趣味はないが、この小説を読み、訪問したくなっている。
 http://www.tesshow.jp/nakano/temple_takada_kotokuji.html(「高徳寺」)
 http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/26285560.html(著名人の墓巡り:新井白石の墓」)