エルネスト・ルナン(Ernest Renan)の「国民とは何か」

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  E.ルナン(Renan)の講演記録「国民とは何か」(鵜飼哲訳)は、論集『国民とは何か』(インスクリプト発行・河出書房新社発売 1997年初版)に収録されている。ルナンは、国民とは、民俗誌学的境界=種族でも、宗教的同一性でも、言語の共通性でも、たんなる利害の共通性でも、自然境界でも、他から区別されたそのまとまりを説明・定義できないものであるとしている。「個人の存在が生命の絶えざる肯定であると同じく、国民の存在は(この隠喩をお許しください)日々の人民投票(un plébiscite de tous les jours)なのです」。本の帯にも紹介されているこの言葉の前のところで、ルナンは語っている。

 国民とは魂であり、精神的原理です。実は一体である二つのものが、この魂を、この精神的原理を構成しています。一方は過去にあり、他方は現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産の共有であり、他方は現在の同意、ともに生活しようという願望、共有物として受け取った遺産を運用し続ける意志です。人間というものは、皆さん、一朝一夕に出来上がるものではありません。国民も個人と同様、努力、犠牲、献身からなる長い過去の結果です。祖先崇拝はあらゆる崇拝のうちでもっとも正当なものです。祖先は私たちを現在の姿に作りました。偉人たちや栄光(真性の栄光です)からなる英雄的な過去、これこそその上に国民の観念を据えるべき社会的資本です。過去においては共通の栄光を、現在においては共通の意志をもつこと。ともに偉大なことをなし、さらに偉大なことをなそうと欲すること。これこそ民族となるための本質的な要件です。人は自ら同意した犠牲、耐えしのんだ苦痛に比例して愛するものです。自分が建て、譲り渡した家を愛するものです。スパルタの歌謡「われらは汝らの過去の姿なり、われらは汝らの今日の姿たらん」は、その単純さにおいて、およそすべての祖国の簡潔な賛歌なのです。(p.61)


 普仏戦争(1870〜1871年)におけるフランスの敗北という現実に直面しての、ルナンの講演内容である。ルナンは共和主義の根本原則を語りながら、コントに触発されつつ積極的=実証的な真理を生み出す科学的な理性に基づく「精神的権力」の樹立を構想していたことを、同書収録の、鵜飼哲氏の論稿「『市民キャリバン』あるいはエルネスト・ルナンにおける精神の政治学」は論じている。ルナンの『市民キャリバン』はシェイクスピアの『テンペスト』の後日談との副題をもった、ルナンの戯曲作品。プロスペロー、キャリバン、エアリエルの3人が島からミラノ公国に戻ってからの生き方を描いているとのこと。調べても残念ながら翻訳がなさそうである。作品を知らなくとも、むずかしい鵜飼氏の議論の展開にそこそこは付いていける。興味をもったのは次の指摘。

……1890年、『科学の未来』の序文において、なおルナンは次のように述べているのである。「人種間の不平等は確認ずみである。進歩の歴史のなかで多かれ少なかれ良い評価を得た各血族の称号は決まっている」。したがって、「国民とは何か」におけるドイツの種族主義的ナショナリズムに対する批判も、キャリバンに彼が認めた「進歩」の可能性も、精神的な独創が可能な「人種」とそうでない「人種」の区別に関する彼の信念を根底から揺るがすものではなかったのだ。これらの思想はエアリエルの台詞のなかではやや戯画化されていることは否めないが、それを作者ルナンの思想的変化のはっきりとした徴候とみなすことには無理があろう。(pp.251〜252)

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(1987年3月日生劇場にて、蜷川幸雄演出『The Tempest』)

f:id:simmel20:20220308131359j:plain(プロスペロー:平幹二朗

f:id:simmel20:20220308131529j:plain(エアリエル:松田洋治

f:id:simmel20:20220308131611j:plain(キャリバン:松重豊=若き伴虚無蔵)

f:id:simmel20:20220308131655j:plainミランダ:田中裕子)

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ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体』(白石さや・白石隆NTT出版)⦆