ロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)没後150年

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『マルドロールの歌』のロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)は、1870年11月24日に、新型コロナ禍と同じような疫病流行下のパリで24歳で亡くなっているから、本日は没後150年の命日にあたる。昔栗田勇訳の『マルドロールの歌』(現代思潮社)を一気に読破したことを思い出す。いまで言えば、長いラップの曲を一晩酔い痴れて聴き続けたような体験であったろうか。その後いろいろな翻訳が出ているようであるが、一つも読んでいない。個人的にはロートレアモン栗田勇なのである。
 デペイズマン(アンドレ・ブルトン『百頭女』前口上)の代表的表現として有名な詩句は、「第六の歌」の一節。大昔の記憶を手繰り寄せつつ、書き写す。

……さて、このわが筆(ぼくの相棒である真の友)が神秘的にしてしまったこの場所から、コルベール街とヴィヴィエンヌ街が合する方角を眺めるなら、この二つの路の交差によって生ずる角に、一人の人物がシルエットを浮かびあがらせ、軽やかな足どりでプールヴァールの方に向かうのがみえよう。だが、この通行者の注意を惹かないようにもっと近づくと、一種の心地よい驚きの念とともに気づくはずだ、彼は若いと! 遠くから見れば、誰だってきっと成年にたっしていると思ったかも知れない。真面目な容貌の知的な能力を評価することが問題なら、もはや日月の総量などは問題にならない。ぼくは額の人相学的線の中に年齢をよみとることには精しいのだが、彼は17歳と4ヵ月だ! 彼は肉食猛獣の爪の牽縮(✼けんしゅく:爪を引っ込めること)性のように美しい、あるいはさらに、後頭部の柔らかな部分の傷口の定かならぬ筋肉運動のように、あるいはむしろ、あの永久の鼠取り機、動物が捕えられる度毎にいつでも仕掛け直され、一台で無数の齧歯類(✼げっしるい)の動物を捕えることができる、藁の下にかくされていても機能を発揮することのできるあの機械のように、そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい! メルヴァン、このブロンドのイギリス女の息子は、剣術の授業を先生のところで受けてきたところだ。そして、スコッチのチェックの服に身をつつみ両親のもとへ戻るところだ。(pp.291〜292)

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……超現実とはその上、一切のものの完璧なデペイズマンに対する、私たちの意欲に応じて得られるものだろう(そして言うまでもないことだが、人はついに一つの手を、腕から切りはなして転移=デペイゼすることだってできるし、しかもその手はその結果ちゃんと手としての利を得るわけだ。それにまた、私たちはデペイズマンについて語る場合、ただ空間内での移動の可能性ばかりを考えているわけではないのである)。(巌谷國士訳『百頭女』河出書房新社

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