丘浅次郎の『進化論講話』第1版が発刊されたのは、1904(明治37)年日露戦争勃発の年である。いま手元にあるのは、有精堂1967年発行のもので、同社刊行の丘浅次郎著作集全3巻も所蔵している。
丘浅次郎は、進化論について、進化の事実とその原因の説明とを混同してはいけないと注意を促し、進化論とは、「動物・植物ともに何の種類でも長い年月の間には次第に変化するものである、しかしていかなる点がいかなる方向に向かって変化するかは、その時時の事情で定まることで、最初より確定してはいないから、たとえ同一の先祖から生じた子孫でも、長い年月相異なった方向に向かって変化すれば、次第次第に相遠ざかり終には全く相異なった数種に分かれてしまうものであるという説に過ぎぬ。これだけは生物界に実際現われている事実であるから」、「これについて反対の考えを持っている生物学者はもはや一人もいない」。
その進化の事実について「適当な説明」を与え、その起こる原因を示して、「進化論の基」を定めたダーウィンの説明を紹介し、かつ進化の事実を証明したいというのが本書の意図である。第8章・1にダーウィンの「自然淘汰説」の柱となる「優勝劣敗(適者生存)」についての解説がある。これを読めば、「適者生存」とは生き延びたものが即ち優れたもの、の意味ではないことがわかるのである。
優った者が勝ち劣った者が敗れるのはわかりきったことで、別に説明にもおよばぬようであるが、生存競争という自然界の現象を論ずるに当たっては、普通に用いるよりは大いに意義を広めて無意識競争までも含ませなければならぬように、優勝劣敗というても、われわれが優者と見なす者がいつも必ず勝ち、劣者と見なす者がいつも必ず敗れるとは限らぬ。ただその場合において生存に適する者が生存するという広い意味であるから、われわれが常に劣者と見なしている者がかえって生き残るような場合があっても、これは決して優勝劣敗以外の現象ではない。かつて磐梯山の破裂したとき、達者な者は驚いて一番に家から飛び出して負傷したり死んだりしたが、腰の立たぬ人等は逃げ出すことの出来なかったためにかえって助かった。 これを見てある人は劣勝優敗だなどと論じたこともあるが、かかる際には腰の立たぬ方が適者で、達者な方が不適者である。かようなことが自然界には往々あるゆえ、優勝劣敗というよりはむしろスペンサーの用い始めた適者生存という文字を取った方が、誤解せられるおそれがなくて穏当であるかも知れぬ。生物界において優勝劣敗というのは、いつでもただ適者が生存するという意味であるが、この意味にとればいつどこで用いても決して例外のあるべき理屈はない。(p.97)
「適者生存はファシストの思想だ」という国会議員まで出てきた。進化論の危機だ。 https://t.co/uPOprrfPE1
— 池田信夫 (@ikedanob) 2020年6月23日
誤読しているのは村上さんですよ。子供の頃から米国に25年以上住んだ者として正しいニュアンスで読解すると「もしある種がその競争相手の変化・改良に見合う程度に変化、改良できなければ、まもなく絶滅する」です。貴方は自分に都合よく誤読しています。 @Fungus_grower https://t.co/GrCgvaSqiD
— H.S. Kim (@xcvbnm67890) 2020年6月24日
朝日新聞が古い進化論を振り回すのはしょうがないが、⼈間⾏動進化学会が「生物と人間の進化はまったく別だ」という声明を出したのには驚いた。人間行動を進化論で説明する進化心理学が学問の最先端なのに。 https://t.co/SsN62fRHZl
— 池田信夫 (@ikedanob) 2020年6月30日
(わが所蔵の『丘浅次郎著作集全3巻』)