谷崎潤一郎「人魚の嘆き」

  かつて(2011年9/11)ブログに「人魚の嘆き」について記している。再録(公開)しておきたい。

▼9/14(水)に笠松泰宏作曲・指揮のモノオペラ『人魚姫』の舞台を鑑賞して、谷崎潤一郎の「人魚の嘆き」を思い起こした。

 この作品は、わが書庫の一番奥の棚に眠っていた『谷崎潤一郎全集』(中央公論社)の第4巻に収録されている。1冊1500円と表示されている。同じ巻には、1985年(昭和60年)の2月に蜷川幸雄演出・浅丘ルリ子主演で日生劇場で上演された「恐怖時代」も収録されている。なつかしさを感じた。
 中国南京の大富豪の貴公子が主人公。彼は、あらゆる遊蕩、贅沢の行動・生活をやりつくし、どんな酒・女にも興奮することがなくなってしまい、普通ならばいずれも〈絶世の美女〉の7人の寵姫に囲まれながら、阿片を吸っては無聊をかこっている毎日であった。期待外れの陶器やら美女やらを売り付けにくる商人どもに絶望していたあるとき、西洋の異国から訪れた旅人が不可思議なものを運んできた。人魚である。
…彼の女は、うつくしい玻璃製の水甕の裡に幽閉せられて、鱗を生やした下半部を、蛇體のやうにうねうねとガラスの壁へ吸い着かせながら、今しも突然、人間の住む明るみへ曝されたのを恥づるが如く、項(うなじ)を乳房の上に伏せて、腕(かひな)を背後の腰の邊に組んだまヽ、さも切なげに据わって居るのでした。…
 この貴公子は惜し気もなく、異国の旅人の申し出た人魚の代価、金剛石、紅寶石、孔雀、象牙を求めるだけ与えて人魚を手に入れる。貴公子の言葉に応答しなかった人魚は、熱燗の紹興酒をいただくと、貴公子の求愛の言葉に応じて、突然喋り出す。人魚は、貴公子を恋しているが、地中海の故郷の海へ戻してほしいと懇願し、「水甕の縁へ背を託したかと思ふ間もなく、上半身を弓の如く仰向きに反らせながら、滴々と雫の落ちる長髪を床に引き擦り、樹に垂れ下がる猿のように下から貴公子の項を抱へました」。氷をあてられたように寒くなったが、人魚が彼の手頸を導いた心臓のあたりは、なるほど恋の炎が燃えているように暖かであった。
 貴公子は、人魚の願いを聞き入れて、小さな海蛇に変身した人魚を小型のガラスの壜に入れ、船旅でシンガポールの港から出た赤道直下の海に逃がしてあげる。人魚は、数分すぎて一瞬間だけ戻った姿を見せて月光輝く波の中へ没してしまう。
…船は、貴公子の胸の奥に一縷の望を載せたまゝ、戀しひなつかしい欧羅巴の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めて居るのでした。… 

 ところで、東京神保町に、かつて錚々たるビブリオマニア(bibliomania)が集う「人魚の嘆き」という名のカフェバーがあったと仄聞しているが、まだあるのだろうか。まだあればぜひ行ってみたいものである。

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