レッシングの喜劇・悲劇論と舞台

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 西洋比較演劇研究会編『西洋演劇論アンソロジー』(月曜社)にレッシングの『ハンブルク演劇論』から、喜劇について(第28・29号)とアリストテレスの「同情と怖れ」について(第75号)の議論が紹介されている(小林英起子広島大学教授訳)。

 喜劇は「笑い(Lachen)によって矯正しようとする」ものだとし、「その本当の普遍的な効用は笑いそのものにある。滑稽なものに気づくわれわれの能力の訓練にあるのだ」と論じている。

「悲劇の激情」とは、アリストテレスによれば、「同情と怖れ」に区別され、怖れとは、「苦悩する人とわれわれとの類似性から、われわれ自身を思って生ずる怖れなのである」。しからば同情との関連はどうなのか?

……われわれ自身に差し迫ってきた時、われわれが怖れることはすべて同情に値するというのだ。したがってわれわれが同情を催すような不幸な人が、何かしらある弱点によって不幸を引き寄せたとしても、不幸に値しないというのは十分ではない。その人が無実にさいなまれていようとも、あるいはむしろあまりにも罪に苦しめられていようとも、われわれにもその人の苦悩があてはまるのではないかという可能性が見えない時には、われわれには役に立たないか、われわれの同情を引き起こすことはできないというのだ。こうした可能性が生じてきて、真実性が大きく増すのは、詩人がこの人物を概してそうであるよりもひどく描かない場合であり、われわれがその人物と同じ状況にあったならば考えたり振舞ったりしたであろうように詩人がその人物を完璧にそのように考えさせ振舞わせる時にであり、あるいは少なくともそうに違いないとわれわれが思う場合である。(p.188) 

   首肯できる議論である。Hulu配信でハマって観ているトルコのドラマ『オスマン帝国外伝』は、第10代皇帝スレイマンと寵妃ヒュッレムを中心とした、後宮を舞台の殺しあう激しい権力闘争を描いている。史実に基づいているとのことだが、虚構の部分が大きいと思われる。スレイマン皇帝が寵妃の言いなりになっていて、愛のためとは言えあれほど愚鈍では大帝国を治められなかったであろう。皇帝の若いころからの友人・同志で、その命を二度までも救った、知識・教養あり文武に 優れた大宰相イブラヒムを皇帝が苦悩の末処刑の決断に至る過程で、あまりにも大宰相の言動が傲慢に過ぎ、あくまでも「法」に忠実で尊敬すべきイスラム法学者の法官までも嘲笑するに及んで、視聴者は「同情」をもてなくなってくる。演出家が、絶大な権力に溺れてしまったこの大宰相をそのように「考えさせ振舞わせ」るからである。処刑やむなしと思わせる展開なのである。レッシングの論ずる通りである。

 さて劇作家レッシングの作品については、1984年6月日生劇場にて、デユッセルドルフ劇場の来日公演、フォルカー・ヘッセ演出『賢者ナータン』を観ている。日本語字幕方式ではなく、当時はイヤホーンを使っての同時通訳方式での鑑賞であった。

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