墓を建立

  9/15(日)は、近隣の霊園でわが家の墓の建立を見届け、業者から引き渡してもらった。来月に一周忌法要・開眼供養・納骨式を催すことになる。長男次男も立ち会い、何とか手続きなど済ませることができた次第。霊園の近くは花見の名所でもあり、桜並木が続いている。ロケーションはいい感じである。墓石の石材には、国産の深山ふぶきを使用、出来栄えを見て、選択が間違っていなかったと、満悦。家紋は上に小さく一つのみとした。

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芸術新潮』1989年8月号では、「墓巡礼」を特集している。文化史家の井上章一氏の「骨か魂か」は面白い。近代(明治)以前においては、「ごくふつうの庶民が、文字をきざんだ石造の墓標をたてだすのは、近世後期になってからである。以前は、石の墓標などつかわなかった。あるいは、使用したとしても、小さな自然石ぐらいであったろう」としている。伝統的には、死後屍体から霊魂が遊離し浮遊していると日本人は信じ、供養の場所は遺骨の場所とは異なるところに設けられたのであった。江戸時代でも、武家豪農、豪商のみが石造の墓を建立し得たが、中期以後になると経済力をつけた町人も「身分不相応」の墓標を建てるに至り、明治になって、この「身分不相応」のあり方が農民全般にも普及し、「暮石の普及という近代化が、国民的な規模で進行した」のであった。

 さて現代では、先祖代々の〜家の墓に埋葬されたがらない人が増えてきて、そのことは核家族化の趨勢がもたらしたものには違いないが、そもそも先祖代々の墓とはいつから定着したのあろうか。

 だが、「先祖代々之墓」は、そんなに昔からあったわけではない。ありていにいって、それは明治以後になってから普及したスタイルなのだ。日本人古来の習俗ではないのである。

 じっさい、多くの日本人は、そもそも遺体の所在を明示する墓標をたてなかった。三代も前の墓になると、もうどこにうめたのかわからない。そういうことが多かった。こんな状態だと、「先祖代々之墓」は、とうていつくれない。これが成立するためには、まず墓標ができなければならなかった。そして、それは近代以後のことなのだ。(pp.56〜57)