野村萬斎の舞台

 野村萬斎さん、開閉会式の演出統括に 東京五輪・パラ - 一般スポーツ,テニス,バスケット,ラグビー,アメフット,格闘技,陸上:朝日新聞デジタル
 【東京五輪】「シンプルかつ和の精神で」 式典演出の野村萬斎さんが抱負 - 産経ニュース
 狂言師としての能舞台での公演を別にして、現代劇の舞台を3回ほど観ている。多彩な才能の持ち主であることは昔から知っている。



○1988年4月PARCO SPACE PART3にて、折口信夫の「死者の書」を基にした、渡辺守章脚色・構成・演出『當麻(たえま)』。このときはまだ、野村武司(本名)の名で出演していた。当時岩波書店社長の緑川亨氏によれば、

 野村武司氏の「葵上」の舞台姿は忘れ難い。この若き狂言師の妖艶なイメージは、幼児よりの厳しい肉体的修練と現代感覚によって日本の古典芸能を活性化し、現代に身体的演技の可能性を拡大する魅力を備えている。(公演プログラムp.10)


○2004年5・6月東京渋谷・シアターコクーンにて、蜷川幸雄演出『オイディプス王』。野村萬斎オイディプス麻実れい=イオカステ、吉田鋼太郎クレオン。かつてHPに観劇記を記載している。再録しておく。
▼6/10日(金)夜は、蜷川幸雄演出・ソフォクレス作の「オイディプス王」を渋谷シアターコクーンで観劇。蜷川氏の演出になる同作品では、かつてギリシアの女優を招いての築地本願寺境内での公演を観ているが、これはまったく異なる演出である。コロスたちに雅楽の笙をもたせている。明らかに、これまで以上に東洋的あるいは日本的なる表現との融合を試みている。プログラムによれば、クレオン役の吉田鋼太郎に、「雄弁術の国の芝居」との意識で演じるよう指示したそうであるから、一方で情緒に流れないようぎりぎりの努力をしている。対話性と様式美との緊張関係を保つことに成功した舞台といえた。オイディプス野村萬斎、イオカステは麻実れい、ティレシアスは壌晴彦。音楽担当は東儀秀樹

 喜志哲雄氏も述べているように、当時の観客はみな、オイディプス王の悲劇の筋立ては知っていたのだ。「ソポクレースが想定していたのは、拡散された視点をもった観客、主人公と一体になりながらも主人公と距離をおいて眺めもする観客」(岩波『ギリシア悲劇全集第3巻』月報2)ということだ。オイディプスの視点にも、ティレシアスの視点にも、クレオンの視点にも身を置いて共感したり、反発したりしなければ深くは味わえない舞台であろう。今回「あなたこそアポロンの告げるライオスの殺害者なのだ」という決めつけの台詞にやはり衝撃を受けながらも、アポロンに仕える予言者ティレシアスの苦悩に共感するところが大きかったのは、こちらもギリシア悲劇の観客として成熟してきたのであろうか。

 「オイディプス王」の10年前の作品である「アンティゴネー」では、第一スタシモンでコロスたちが歌う「不可思議なるものあまたある中に、/人間にまさって不可思議なるものたえてなし」に始まる歌のなかで、「まこと、人間は、事に接して窮することもなく、/不治の病より身をかわす術すら/よく案ずるにいたりぬ。/案じ得ざるは、ただひとつ、/死を逃れる道ならん」とあるのが、ソフォクレスの人間および人生の根本的認識であろう。

 故斎藤忍随氏によれば(『アポローン岩波書店)、この「不思議なる」と訳されるギリシア語の「ディノス(deinos)」には「巧みなる」とか「恐るべき」「強力なる」という意味が含まれているそうである。恐るべき強力なる人間は、しかし自分の幸、不幸を決定する力がなく、時に禍いを回避できないのである。このような人間および人生の不条理性をさらに絶望的に突きつけたのが「オイディプス王」であるという。

……スフィンクスの謎を解くとは自然の秘奥を探り、その秘密を暴露することであり、そういう大それたことができる者は反自然的な行動の主でなければならぬ。異常な知の持主オイディプースが、自分の父の殺害者にして自分の母の夫であるのは当然である。

 このオイディプスの絶望と没落をもたらしたのは、「舞台に一度も登場はしない」アポローンの神である。陰のもう一人の主役なのである。Kittoのギリシア悲劇研究によれば、イオカステは香をたいてアポロンに祈るのだが、真実をいち早く察知し、奥へかけ入って縊死してしまう。

 彼女が救い求めてたいた香の煙りが立ち登っていたはずで、観客は空しい香煙の中に、彼女の祈りの空しさを感じとったばかりか、人の哀れな祈りを受けつけぬ神アポローンの非情さに気がついたに違いないのである。……(斎藤忍随『アポローン岩波書店

 川島重成国際基督教大学名誉教授は、公演プログラムのなかで、述べている。

……アポロンの光と闇の中に人間を発見していくこと、さらに宇宙の真理を証していくという意味において、『オイディプス王』はまさに宗教的なものを孕んでいるといえよう。……

 僧衣のような暗い朱色の衣をまとったコロスの一団は、マイケル・カコヤニス監督の映画「エレクトラ」の黒衣の女性たちを思い起こさせたが、集団で唱える日本語の台詞に少しわかりにくいところがあった。対決する無常感が最後は、笙の音とともに東洋的な無常感に収斂していった舞台ではあった。間違いなく、夏のギリシアで絶賛されるはずである。座席は、2階B列24番のS席。舞台全体が前2列目で鳥瞰できて最高であった。(2004年6/13記)

○2012年3月東京・世田谷パブリックシアターにて。野村萬斎演出、三島由紀夫作『サド侯爵夫人』。このブログ記載の観劇記も再録したい。
▼ 昨日3/19(月)は、東京世田谷パブリックシアターにて、野村萬斎演出の『サド侯爵夫人』の舞台を鑑賞した。3Fの最前列という席での観劇で、高所苦手のこちらとしては芳しくない条件。1FのS席で上を見上げている中年男性を見つけ、「観劇格差」を思ってあまり高揚した気分にはなれなかった(?)。

 1990年1月東京グローブ座で上演された、スウェーデン王立劇場のイングマール・ベルイマン演出の同舞台ほか、この三島由紀夫作品の舞台化は、少なからず観ているので、記憶が錯綜していて一つに収斂しない。

 今回の舞台の特色は、モントルイユ夫人(サド侯爵夫人ルネの母)を演じる白石加代子が、「本を読んだ段階で俗物で利己的なイヤな女と思ったけれど、加えて萬斎さんは怖さやグロテスクさも出させたいようなんです」と述べている通りの存在感を示す、そのことにあろう。鈴木忠司演出『トロイアの女』や蜷川幸雄演出『身毒丸』で示された圧倒的な存在感と地の底からのような声が、この舞台では違和感を感じさせる。魔性の女性サン・フォン伯爵夫人を演じた麻実れい以外は、この演技にとても拮抗しえない。古今調の長台詞を言うのに精一杯のルネ役蒼井優ほか、シミアーヌ男爵夫人役神野三鈴、アンヌ(ルネの妹)役美波ら、情念の渦を生む気品あることばのアンサンブルを作れていない。

 民衆の暴動が過激化して、ブルボン王朝の崩壊を予想させる第3幕の場面では、それまで家政婦シャルロットが引き上げていたシャンデリアが床に降ろされたままとなり、シャルロット(町田マリー)がエプロンを外してしまう。さすが萬斎演出、シンプルな仕掛けで時代の激変を暗示しようと試みている。牢獄から解放されて訪ねて来たサド侯爵に対して、修道院に入ることを決めたルネがシャルロットに言う最後の台詞「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。『サド侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい』と」のところが音響的にも強調された演出になっていた。生身のみすぼらしいサドではなく、観念のなかのサドを発見しそれにのみ意味を認めたルネにとって、これは当然の態度であったが、さりげなく終わらせてよかったのではないか。

 当日は、D'BURNのジャケットの下にJUNKO KOSHINOのワイシャツという服装で出かけたのだが、新妻聖子がルネを演じた、東京国立博物館講堂を会場にした同演劇(2005年11月)では、ロココ様式のフランス貴族の衣装デザインを担当したのは、コシノ ジュンコさんだった。

 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110807/1312689438(「秋吉良人『サド』)