AIについて学ぶ

 https://www.youtube.com/watch?v=8yQioPH3qeY
 https://www.youtube.com/watch?v=HshqZ6nCSz4
 哲学者の森岡正博さんが考える「AIは哲学できるか」:朝日新聞デジタル
 AIの活用として、認知症の人の判断機能を代役できる可能性が考えられるというところは、認知症予備軍のこちらとしては大いに期待したい。落合陽一さんは高校の遥かに年下の後輩で、Facebook同窓会でこの講演内容について文科系的に理解できる範囲で要約したところ、ご本人にすぐ「いいね!」と返された。まだAIは不要のようである、安堵。
 森岡正博氏の大著『無痛文明論』(トランスビュー)は、かつて読破している。その折HPに記載(2004年1/17記)したreviewを再録しておきたい。
森岡正博大阪府立大学教授の大著『無痛文明論』(トランスビュー)は、読者に生き方の解体と蘇生を求める、氏の代表作となるであろう思想の書である。ここで文明の語は、ある時代ある社会の「制度・組織・生活慣習・価値観・技術体系」などの特徴が普遍性をもった場合を指して使っている。人間の「自己家畜化」の果てに無痛文明が形成されつつあるという。1)快を求め苦痛を避ける、2)現状維持と安定を図る、3)すきあらば拡大増殖する、4)他人を犠牲にする、5)人生・生命・自然を管理する、の五つの形をもった「身体の欲望」こそ、現代の無痛文明をつき動かす原動力である。「身体の欲望」は自らを実現するために「コントロール理性」をしもべとして率いることにしたのである。この「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪っているところに、現代文明の深層構造がある。この認識が、森岡氏の思想的出発点である。

 私がどうしようもない苦しみに直面して、その中でもがいているうちに、いままでの自己が内側から解体され、まったく予期しなかった新しい自己へと変容してしまうことがある。このときに、私におとずれる予期せぬよろこびが、「生命のよろこび」である。それは、自分の内側から、古い殻を突き破って、いままで知らなかった新しい自分がありありと生まれ出てくるときにおとずれる、「ああ、生きていてよかった」というよろこびの感覚であり、自分はこんなふうに生まれ変わることができるのだということを知ったときにおとずれる、すがすがしく風通しのよいよろこびの感覚である。それはまた、成長と変化と死を本質とする生命という形をとって私が存在しているのだ、ということを心底から自己肯定できる感覚でもある。

 この「生命のよろこび」は、「求めようとして得られるものではなく、まったく予期せぬときに、予期せぬ形でおとずれるもの」であるから、「求めようとして得られた充実感である」達成感とは異なるものだとされる。しかも、この無痛化は、将来苦しみの原因となりそうなものを次々と存在抹消していく「予防的無痛化」と、問題の核心を射外し、そのことを「見えているのに見えないことに」させるような「目隠し構造」の二つの社会装置が仕組まれている。そして、他人の苦しみについては、「単なる事実」として解毒されて自分に感受されたり、苦しむ人びとを援助することによって、ほんとうの自分を発見できるという「予定調和」の考え方も一方で発生している。「これらの行動パターンから抜け落ちているものは、他人の苦しみにかかわることが自分を地獄のどん底に突き落としてしまうかもしれないけれど、それにもかかわらずその他人にどうしようもなくかかわってしまう、というパターンである」。
 選択的中絶に象徴的にみられるように、現代人における愛は無痛文明の中で「条件付きの愛」となりはてている。いかにして「条件付きでない愛」を成立させることが可能なのだろうか。

 まず、現代社会の無痛化を放置したまま、二人だけの閉じた世界で「条件付きでない愛」へと歩んでいくことは不可能である。なぜなら、二人で向き合ったときはお互いに条件を付けないのに、社会に出ていったときは一転して社会の無痛化に適応する、というふうに割り切れるほど人間は器用ではないからだ。社会の中で培われた無痛身体は、かならず二人の関係性にも影響を与える。したがって、「条件付きではない愛」へと接近し続けるためには、どうしても無痛文明との戦いが必要なのである。なぜ「愛」が無痛文明論のテーマとなるのかという理由は、ここにある。無痛文明から脱出するためには条件付きではない愛への接近が必要であり、条件付きではない愛へと接近するためには無痛文明との戦いが必要だからである。

無痛文明論

無痛文明論