愛するアレキサンドリア

 高松雄一氏死去 英文学者 訳書に「アレクサンドリア四重奏」など - 産経ニュース

 ロレンス・ダレル(Lawrence Durrell)の『アレキサンドリア・カルテット』(高松雄一訳、河出書房新社)第1部『ジェスティーヌ』(翻訳刊行1960年)の、冒頭10行目のところから引用しよう。(※全面改訳版では、アレクサンドリアと表記)
……僕は記憶の鉄鎖をひとつひとつたぐりよせ、僕たちがほんの僅かの間いっしょに住んでいたその都会へもどってゆく。僕たちをその植物群としてあつかったあの都会、僕たちのなかに争いをまきおこしたあの都会——その争いは彼女のものにほかならなかったのに、僕たちはじぶんたちのものだと思いちがえたのだ——愛するアレキサンドリア
 このことすべてを理解するために僕はこんなに遠くまでやって来なければならなかった。毎夜、大角星(アルタトゥールス)が暗い空に光るこの荒れはてた岬に生活し、あの石灰の埃にまみれた夏の午後の日々からはるかに離れた今となって、やっと、過去におこったことについては僕たちのだれにも責任がないということがわかってきた。審(さば)きをうけるべきなのはあの都会なのだ。たとえ犠牲をはらわなければならぬのはその子供ら、僕たちであるにしても。……( pp.8~9 ) 

 栗田勇氏は、『神々の愛でし都』(中央公論社・1972年)の「理想郷・アレキサンドリヤ」で、ダレルの『アレキサンドリア・カルテット』をめぐって考察している。(※栗田勇氏の著書では、アレキサンドリヤと表記)
……私は、カイロから車をとばして三時間、この都の岸壁から、地中海へ沈んでゆく日没を見ながら、この都をえらんだダレルの感覚の確かさをたしかめざるを得なかった。
 さて、この小説は、周知のように、それぞれスタイルの異なった四部から成立していて、しかも、それは、いわゆる歴史的時間の秩序に従っていない。なぜなら、もし、仮構にもせよ、ひとつの現実を「構成」もしくは「創造」するとしたら、そのとき作家は、その全体像をひとつの完結体として捉えていなければならない。もう少し正確にいうなら、世界をひとつの完結体として、みるためには、まず、みる人間の側が、ひとつの視点、それも自我を中心として意味をもつ個性をもっていなければならないわけである。
 しかし、すでにみたように、もし、個人が延長の部分であるとするなら、部分が全体を究極的に捉えることはできない。まして、意味と進歩によって秩序づけられる歴史的時間が成立するはずもない。
 そのときどうなるだろう、という答えが、小説だといってもいい。……(pp142~143)

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ