「マルチチュード」とはいったい?


 このインタビューも「誤配」を予定して(?)のことであろう。こういう本は、話題に上らなくなったときにじっくり読んでみたいもの。ただ「マルチチュード」という用語については復習しておきたい。かつてHPに、アントニオ・ネグリマイケル・ハート著、幾島幸子訳『マルチチュード(上)』(NHKブックス)の読書ノートを記載している。
アントニオ・ネグリマイケル・ハート著、幾島幸子訳『マルチチュード(上)』(NHKブックス)をようやく読了。しかしこの書全体の半分である。こなれた翻訳の日本語の文章であるが、独特の言い回しに慣れながら文脈と論理展開を考えながらでないと、1頁たりとも先へ進まない。「戦争と平和との区別は浸食され、もはや私たち真の平和を創造したり望んだりすることすらできなくなっている」現代世界に対して、唯一の「平和な生の共有へと導く道筋」としての民主主義を構想・実践する立場でどう対処しかつそれが可能かを考察していて、刺激的である。
「ネットワーク状の権力」によって支配される〈帝国〉に対抗できるのは、一なるものであるこれまでの「人民」ではなく、「特異な差異からなる多数多様性にほかならない」「マルチチュード」であるとし、これは、差異の欠如を本質とする「大衆」とも異なり、「さまざまな社会的差異はそのまま差異として存在しつづける」。マルチチュードの格好の初期のイメージまたはモデルとなるのは、インターネットのような分散型ネットワークで、「さまざまな節点がすべて互いに異なったまま、ウェブのなかで接続されていること」および、「外的な境界が開かれているため、常に新しい節点や関係性を追加できること」の2点が理由である。このマルチチュードは、〈共〉を基盤としたコミュニケーション・共同作業・協働によってさらに〈共〉を生み出し、また組織内部にたえず民主的な関係性を創造する政治的な組織化の面から、現代民主主義の可能性を支えることが期待される。マルチチュードが対抗すべき〈帝国〉とはどういう世界として理解されるかというと、
……今日のグローバルな〈帝国〉におけるアパルトヘイトは、かつての南アフリカと同様、ひと握りの人びとの労働と貧困を通じて恒久化する、階層的包含からなる生産システムにほかならない。その意味でグローバルな政治的身体とは、グローバルな労働と権力の分割によって規定される経済的身体でもあるのだ。……
 マルクスが工場労働者を主体に変革を考えたが、現代における労働の主導的(数量的意味ではない)形態は、「知識や情報、コミュニケーション、開放性、情緒的反応といった非物質的な生産物を創り出す労働」である非物質的労働となっており、マルチチュードが社会的主体となる必然性があるのだ。
 第二部2−2の「私的所有権の拡大」のところはとくに衝撃を受ける。たとえばインドの農民の植物をめぐる伝統的な知恵も、多国籍企業によって科学的な非物質的労働の成果として認められてしまうと、それが「特許」という私的所有権に化けてしまうのである。力のある国民国家と国際機関が支えて〈帝国〉の法的秩序が成立しているというわけである。
……言いかえれば、一番の問題は人間が自然に挑戦していることではなく、自然が〈共〉ではなくなりつつあること、自然が私有財産となり、その新しい所有者によって独占されつつあるということなのである。……(2008年10/27記)
 関連して、上野修大阪大学教授の「スピノザ『神学政治論』を読む」(ちくま学芸文庫)の読書ノート。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140828/1409228493(「信仰の教義—スピノザの場合:2014年8/28 」)
 現代ナショナリズムについては、大澤真幸京都大学教授の『ナショナリズムの由来』(講談社)の読書ノート。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20101005/1286258267(「『ナショナリズムの由来』を読む:2010年10/5 」)
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オタクとアートの古本屋:ゲンロン5を読んでるとまだ90年台、岸田秀とか今西錦司を古本屋で漁って読んだのを思い出す。昔って真面目な学者の本当か嘘かよく分からない学説とか面白エッセイの本がたくさんあって面白かったんだよな。伊丹十三もよく読んでた。ゲンロン5もそんな感じがする。あずまんは怒るかもしれないけど。(7/18)……東浩紀 hiroki azumaさんがリツイート