三島由紀夫作『白蟻の巣』観劇



 3/9(木)は、三島由紀夫作、谷賢一演出の『白蟻の巣』を新国立劇場・小劇場にて観劇。初めて知る三島由紀夫作品であるが、第二次大戦後のブラジルのコーヒー農園経営者の邸宅を舞台にした、古典劇のスタイルを守った舞台である。登場人物は、経営者刈屋義郎(平田満)、その妻妙子(安蘭けい)、お抱え運転手百島健次(石田佳央)、その妻啓子(村川絵梨)、農園管理人大杉安之助(半海一晃)、メイドきぬ(熊坂理恵子)の6人のみ。しかし時間については、ある一日の物語ではなく、厳密に三一致の形式に則っているわけではない。百島健次と妙子は、かつて心中事件を起こし、それぞれ首に傷跡を残している。主の義郎が、その〈寛大さ〉によって、二人を許し、健次は啓子と夫婦で刈屋家に住み込みで働いているという設定である。幕が上がり、ベッドに臥している傍らで啓子が泣いている、ここから一気に物語が展開するのである。起き上がった健次は、上半身裸である。
……戯曲という純粋主体は誰の目にも見えず、俳優というものの客体的要素が、それを人の目に見せる媒ちをする。(ラジオ・ドラマでは、肉声がこの客体的要素に当る)。ところで、俳優の客体的要素が高まれば高まるほど、映画俳優やバレエ・ダンサーのように、それはますます、主題を表現する抽象的役割を担うのである。中では舞台俳優が、セリフを通じて、もっとも主体的要素を含みつつ、実はその役割は、ますます具体的なものになる。……⦅三島由紀夫『芸術断想』(ちくま文庫)p.17 ⦆
 妙子は、健次以前にも他の男と心中事件を起こしていることが、3幕目の刈屋義郎の述懐で観客は知ることになる。義郎はかくして、いつも〈寛容〉であり続けたのであり、妙子の心中は心中未遂に終る心中ごっこでしかなかった。成功した富豪の農園経営者の養子としていまの地位にある義郎は、上流にふさわしい貴族的文化を生きていない、ただのブラジルの地域の名士でしかない。彼の〈寛大さ〉とは、その存在の紛い物性に由来しているわけである。
 題名となっている、どこかに集団移動して空となった巨大な白蟻の巣が、この空虚な刈屋家の生活空間の暗喩となっている。心中のドライブに出て行った妙子と健次の留守に、義郎は若い啓子との結婚を約束するが、二人の車が戻ってくるエンジン音が聞こえると、義郎は、二人を追い出してとの啓子の頼みも実行できず立ち尽くしてしまう。悲劇の模倣は、喜劇で終るしかないのである。三島由紀夫研究家の山中剛司氏が、パンフレットに書いている。
……ブラジルという実在の土地を背景にしつつも、ここに描かれているのは現実のブラジル移民社会ではない。舞台上に幻のように現出するのは、ブラジルの刈屋家ではなく、刈屋家として浮き彫りにされる占領下日本の葛藤の姿なのである。がらんどうの空虚な建造物、生ける屍だけが住まうこの刈屋家こそ、敗戦後十年を閲して三島由紀夫が見た戦後日本のあり方であり、まさに白蟻の巣なのであった。……(公演パンフレットp.17 )
 白蟻は役割を終えた巣を捨てて他へ移動して行くが、この登場人物たちは、すでに物語を喪失しているこの生活空間でまた生き続けて行くところが、決定的に異なるところなのである。
 吉高由里子主演のテレビドラマ『東京タラレバ娘』にも、薄幸の女教師役で出演している村川絵梨は熱演で、その肢体と躍動は、生の側を表わした「抽象的役割」をそれなりに演じ切っていた。



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