「見る」ということ:映画『二十四時間の情事』から


 アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本、日仏合作映画『二十四時間の情事』(Hiroshima mon amour :ヒロシマ・モナムール)は、昔退屈して観た記憶がある。映画そのものよりも、映像作家・映画評論家の松本俊夫氏の『映像の発見』(三一書房)所収の批評(「追体験の主体的意味—『二十四時間の情事』について」)の方が面白く、その鋭利な考察の論理展開はよく覚えているのである。
 冒頭、広島のある場所で抱き合うフランス人の女(エマニュエル・リヴァ)と日本人の男(岡田英次)の会話。女が「わたしは病院も見た、博物館も見た、ニュース映画も見た」と言い、ヒロシマの惨劇を「事実」としてとらえた映像も何もかも見たと語ると、男は、「君は何も見ていない」と繰り返す。ここのシーンは音声とともに印象が鮮烈である。
 松本は、『女は、ヒロシマというものを、たんに「見えるもの」の累積としてしかとらえていないし、それもヒロシマを自分の「外側」に、同情と恐怖の対象としてしか見ていない。男が「君は何も見ていない」というのはそのためである』としている。女は、己にとってのヒロシマの「意味」を見ていないのである。
 彼女は、かつてフランスのヌベールで戦争中に恋人と死別している。無時間の「錯乱」のなかで、「いま・ここ」のヒロシマでの恋・恋人とその体験とが重なり合うとき、初めてヒロシマの「意味」が見えてくるのである。
……こうして女はヒロシマヒロシマでの恋の記憶をよみがえらせてゆく。そこには彼女が忘れようとして忘れることができずにいた彼女の決定的な戦争体験、つまり彼女の初恋の男の死、しかもごく一般的なそれではなく、きわめて反祖国的で破廉恥なものとして糾弾されたそれがあるのである。そしてその体験の直接性をより対自的なものにしてゆくのである。むろんそのことは、それがヒロシマの「いま・ここ」との関連で可能となってゆくのであり、その意味で、それは同時に「彼女にとってのヒロシマの意味」を変質させることにもなるのである。つまりヌベールはヒロシマという鏡によってその意味をとらえかえされ、そのようにしてとらえかえされたヌベールを鏡として、ヒロシマもまたその意味をとらえかえされてゆく。そのような弁証法を通して、ここにはじめて、ヒロシマのなかにヌベールを見、ヌベールのなかにヒロシマを見る意識が生まれてくるのである。これは明らかに、冒頭のシーンで彼女が「ヒロシマを見た」といった、その意識のレベルとは質的にちがったものとなっている。一言にしていえば、彼女は自分自身の戦争体験をかいくぐって、その「内側」にヒロシマの「意味」を見いだしてゆくのである。……( pp134~135 )
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20160612/1465696886(「松本俊夫とは懐かしい:2016年6/12 」)