『罪と罰』のママレード親爺と『もう半分』の棒手振りの爺さん


清水正ドストエフスキー論全集2』(D文学研究会刊)に、ドストエフスキーの『罪と罰』の、居酒屋でラスコーリニコフに話しかける酔漢マルメラードフと、落語『もう半分』の野菜を売る棒手振りの爺さんの人生を比較対照した論考「テキストの解読と再構築」が収録されている。二部構成で、第1部が「志ん生落語『もう半分』の解読と再構築」、第2部が『マルメラードフの「告白」の解読と再構築』となっている。面白かった。


 http://ginjo.fc2web.com/57mouhanbun/hanbun.htm(『落語の「もう半分」を歩く』)
 http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/08/post_c3c7.html(「落語あらすじ事典:もう半分」)
 落語の『もう半分』の棒手振りの爺さんの場合は、老いた父に店をもたせたいと娘が50両で吉原の女郎屋に身を売ったこと、『罪と罰』の退職官吏マルメラードフの場合は、貧窮の家族のために淫蕩な閣下イヴァンに30ルーブリで娘ソーニャが〈踏み越え〉て体を売ってしまい、ついには警察によって娼婦として〈黄色い鑑札〉を受けるに至ることが、物語の出発点である。
 清水正(まさし)氏の『もう半分』解読で注目すべきは、爺さんが居酒屋に忘れて置いたままにした50両をネコババしてしまえと唆した、居酒屋の女房のみがワルなのではなく、むしろ亭主の方が倫理的に問題であるとしたところである。
……この亭主は、表向きは善人面をしたがる臆病な悪党で、見ようによっては女房以上にワルなのである。亭主は女房に「追っかけて届けてやろうと思うんだけど、何処ィ行ったかなあ?」と呟いている。「もう半分」の爺さんは馴染みの客で、八百屋であることもわかっているのだから、今さらどっち行ったかどうかもないだろう。
 わたしが言いたいことは、亭主がすでに悪心にとり憑かれていたということである。亭主は女房に「お前さんは、人間がいやに正直だねえ…ェえ? 人間…そう馬鹿ッ正直じゃァ、生涯貧乏するよ」と言われているが、このセリフは亭主の内心の声そのものである。
 この亭主は、女房の証言によれば、『いつまでこんな貧乏な酒屋ァしていたくない、金がありゃァ、金がありゃァ』と言っていたのであるから本音を言えば爺さんが忘れていった五十両を喉から手が出るほど欲しかったのである。ただ、臆病で狡く、天罰が下るのを恐れているから、自分だけの判断と意志でネコババするだけの勇気がない。そこで、気の強い女房に自分の本音を言わせるように、無意識のうちに企むのである。
 このように、亭主の内部に深層心理学的な照明をあたえると、この亭主なかなかのワルということになる。……(pp.272~273)
 立川志らく師匠は、『全身落語家読本』(新潮社)で、この落語は、「後味の悪い噺」で、「別にそれほど怖くもないし、落ちも称賛するほどのものでもない。実に中途半端な怪談噺」としている。(談志の)立川流であれば、「業の肯定」で済ますところを、全共闘世代ということか清水正氏は、あくまで亭主の隠されたワルぶりを糾弾したいようである。
 柳家小三治の『もう半分』の再構築では、爺さんは居酒屋に一見の客として入ってきたのであり、女房の妊娠も爺さんの身投げの後のこととされる。
罪と罰』のマルメラードフ(ママレード親爺)は、居酒屋でラスコーリニコフと、「完全に酔いつぶれていた酔客」1人を除いた、亭主と使用人の子供2人、先客の酔客1人の5人を聴き手として告白話を展開する。
……それにしても、実の娘を身売りさせたこの酔漢が、酒場の亭主や使用人を侮蔑的にあしらうような素振りを見せていたということは、何とも恐ろしいほどに滑稽である。
 マルメラードフはラスコーリニコフに向かって「わしはあんたの顔に、何やら悲しそうな色が読めるんですがね。はいってこられたとたんにそれが読めたから、でまあ、さっそく話しかけたようなわけですて。なんせ、あなたに自分の身の上話をしたのも、今さらいわずとも知り抜いているそこらのやじ馬どもに、おのれの恥がさらしたいためためじゃごわせん。ものに感じる心を持った教育のある人をさがしているからなんで」と語る。
 ここでマルメラードフの言う〈ものに感じる心を持った教育のある人〉に注目しておこう。……(p.306)
〈貴婦人〉で〈育ちのよい教育のある家柄の女〉であった未亡人のカチェリーナと結婚するが、マルメラードフはついに彼女の心からのそれも形而下的な意味も含めての〈憐れみ〉を受けることはなかったのである。カチェリーナは、家族の生活を守るためにマルメラードフのプロポーズを受け入れてしまった。〈踏み越え〉てしまったのである。だから、ソーニャが閣下イヴァンに身を売る〈踏み越え〉の行為に対しても、「何をたいせつがることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし?」と、乱暴な言葉を放ったのである。それは、みずからへの〈踏み越え〉の屈辱の確認でもあった。
……ラスコーリニコフの〈踏み越え〉は〈老婆アリョーナ殺し〉に始まる〈復活〉であるが、ソーニャの場合は〈身売り〉、そしてカチェリーナの場合はマルメラードフのプロポーズを受けたことである。つまり、カチェリーナがマルメラードフの結婚申し込みを受けたその、深い内心の声が「何をたいせつがることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし?」であったということである。……(p.317)
「〈キリスト〉と合体するという秘儀を経て自らが神性を獲得した存在」であるソーニャによって、マルメラードフは酒瓶の底にある〈悲嘆〉と〈涙〉を通して、万人を憐れみ、理解し、裁くひとである〈唯一の方〉を見いだしたのであった。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110628/1309276466(「リュビーモフの『罪と罰』:2011年6/28」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20100617/1276763302(「チェーホフ劇はどこで笑うのか?:2010年6/17」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20150304/1425444903(「夏の乳房・春の乳房」)