「復讐について」

◆十七世紀英国の哲学者ベーコンの『随想集』(岩波・渡辺義雄訳)には、「復讐について」という小篇がある。「復讐は野蛮な正義である」という書き出しで始まり、「復讐したがる人々は、魔女の生涯を送る。彼らは有害であるだけに、その終わりは不幸である。」と結んでいる。被害を受け理不尽な災厄に遭遇した者が、その原因となった行為の主体に対して、同様の致命傷を与えようとする行ないが復讐ということになろうか。
金色夜叉』の間寛一は、金の力で恋人を奪われるが、その後冷血な高利貸となった彼が復讐しようとしたのは、特定の個人というより世間そのものであろう。復讐の相手はいつも具体的な個人とは限らないということなのだ。対象が国家であったり、ある宗教の宗派だったりする場合は、納得できる致命傷など限定できないので、際限もない復讐の行為が互いに繰り返され、復讐の連鎖はとどまるところを知らないことになる。現代世界のどこかで生起し、報道されているこのような復讐の連鎖のドラマに痛みを感じるよりも、われながら「またか」というなれの印象をもってしまうのはやはり危ういことに違いない。 
ハムレット』も、父先王の命と地位を奪った者たちへの、ハムレットの復讐劇といえるが、復讐の悲劇の凄惨さということでは、『タイタス・アンドロニカス』が、シェイクスピア作品の中では、抜けているだろう。征服したゴート王国の王女とその召使のムーア人の陰謀によって、主人公の将軍タイタスは、多くの息子たちをただ一人だけ残して失い、最愛の娘は、ローマ皇帝の后となったゴート王女の息子たちの毒牙にかかったばかりか、舌を抜かれ両手を切られてしまう。真相を知ったタイタスの陰惨な復讐が実行されるのである。直接の下手人らは殺され、その骨と肉で調理されたパイが、新たに攻め込んできたゴート軍とローマ軍との和睦の宴席で、母の后に供されるのである。哀れな娘を息絶えさせ后を殺害したタイタスは皇帝に殺され、彼もタイタスの生き残った息子に殺されてしまう。タイタスの息子が新皇帝に選ばれ、ムーア人は処刑される。このムーア人と后の間に秘かに宿された全身黒い肌の赤ん坊が生存を許された。またいつの日かこの子が成長して復讐の戦場に立つのだろうか。ギリシア悲劇オレステスは、父アガメムノン王の復讐を果たして親殺しの罪で追われる身となるが、最後にアテナー女神の計らいで救われる。
「復讐をするならば、人はその敵と対等であるが、それを断念するならば、優越する。許すことは、王侯のすることだからである」とベーコンは、警告している。しかし、この暗い情念に打ち克つことは容易ではないだろう。(『雲』龍書房刊:2006年6月号)