福田恆存『現代の悪魔』再読

 
 高校時代に初めて出会った福田恆存の著作『現代の悪魔』(新潮社)所収の評論、「自由と平和」と「現代の悪魔」を何十年ぶりかで再読した。当時英語授業のサブテキストとして学校で講読していた、B.ラッセルの平和論を批判している評論との、どこかからの情報で書店で買い求めたかと記憶している。ベルジャーエフヤスパースなどの議論をすでに知ったあとで、今さら驚く批評ではないが、さすがに射程距離の届いている文章はある。「現代の悪魔」で、B.ラッセルの反原水爆の主張と行動を批判している。
……原水爆は確かに「現代の悪魔」には違ひない。が、それにしても、人々は原水爆に始めて「悪魔」を見たといふのであらうか。それまで「悪魔」の姿にお目にかかった事はないのであらうか。一挙に全人類を死滅せしめる原水爆は「悪魔」であって、一挙に全家族を殺す爆弾は「悪魔」ではないのか。一人の人間を殺しうる刃物は「悪魔」ではないのか。そしてまた、原水爆を造り出した人類は「悪魔」ではないのか。その自然科学的能力は「悪魔」のものではないのか。
           (略)
 それにもかかはらず、原水爆はやはり「現代の悪魔」である。なぜなら、人々はこの「大悪魔」の威力に恐れて、世に「悪魔」と呼びうるものはそれのみと思ひこみ、その他の「中悪魔」「小悪魔」の存在を何程のものとも思はなくなってしまったからである。「大悪魔」の威力を封じる運動が、ただそれだけで最高の美徳となり、世界戦争を避けるための努力が、局地戦争の犠牲を蔽ひ隠す。この、いはば價値に對する無感覚と混亂こそ、「悪魔」との取引きにほかならない。……(pp.38~39)
 知的に鈍感でない人であれば、「現代の悪魔」に原子力発電所を、「中悪魔」あるいは「小悪魔」に、火力発電所や自動車をあてはめて読み直すであろう。