『鮫人(こうじん)』の浅草オペラ観

 観光地としての浅草に注目が集まり、多くの外国人旅行客の来訪もあって、賑わいをみせているようである。むろん悪いことではないが、持続する文化的活力が備わっていないと、飽きられ衰退しないとも限らない。
 それはそれとして、今年は谷崎潤一郎没後(1965年7/30没)50年にあたるとのこと。川端康成の『浅草紅團』とともに、大正から昭和初期にかけての浅草の風景と坩堝ともいうべき文化状況を窺うには、谷崎潤一郎の『鮫人』がある。
 浅草オペラを興行としている浅草劇場の楽屋にまで押しかける服部という27才の無職の青年は、「浅草の本願寺の裏の方にある、松葉町の露地の奥の長屋」に住んでいる。この「松葉町」はいまは隣町と合併して「松が谷」となっている。こちらは、少年時代・青年時代をこのあたりで過ごしていたので、その設定じたいに親近感を覚えるのである。服部が惹かれる「ソプラノ唄ひの林眞珠と云ふ少女」についてはさておいて、浅草オペラについての記述をみよう。浅草劇場への道順のところが面白い。
……松葉町の服部の家から其の劇場へ行くには、合羽橋を渡って本願寺の裏通りを過ぎ、西洋料理屋今半支店の角へ出て其處の道路を横切り、道路と公園とを劃して居る溝を跨げば直ぐ取っ付きの右の角——恰も觀音劇場と向ひ合ったところにあった。……(中央公論社版『谷崎潤一郎全集・第七巻』p.90)
 その觀音劇場を拠点にしてすでに浅草オペラは隆盛を極めていたのである。そこへ浅草劇場が出現し、梧桐寛治が主宰する「新劇と歌劇とを打って一團と」する興行が加わって渦巻きが大きくなったという展開。
……浅草で歌劇「ファウスト」が演ぜられ、「椿姫」が演ぜられ、「カルメン」が演ぜられたと聞いても、別に驚くにはあたらない。なぜなら其れはグノーの「ファウスト」でなく浅草の「ファウスト」であり、同時にヴェルディやビゼエの「椿姫」「カルメン」でなく浅草の其等であるから、——前にも云ったやうに総て此處へ這入り込んだ物は直ちに「公園獨得の物」に化けるのであるから。……(同書p.86)
 その観客とはどういう人びとだったかといえば、
……オペラを見る者は学生ばかりで浪花節を聴く者は熊公八公ばかりだと思ったり、又五郎に感心するのは守ッ児ばかりで西洋物を喜ぶのは良家の子弟ばかりだと思ったら間違ひになる。職人がカフェへ這入ったり、ハイカラが縄暖簾をくぐったり、娘が鮨の立ち食ひをしたりする。彼等の趣味は始めから斯くの如く出鱈目でとんちんかんになるのである。現に根岸興行部でやって居る「三館共通」と云ふ方法は、此の見物人の出鱈目に附け入り且つ出鱈目を附け上がらせて居る。試みに終日公園を遊び歩いて帰って来た者に聞いて見るがいゝ、「何か面白い物を見たか?」「何か旨い物を食ったか?」——さうしたら彼等は一往は「面白かった。」「旨かった。」と云ふであらうが、全體「何が面白かったのか。」「何が旨かったのか。」と問はれゝば恐らく即座には答へることが出来ないに違ひない。彼等は云ふであらう、——「何か知ら面白かったのだ。」「何か知ら旨かったのだ。」と。それは實に正直な答である。公園には何か知ら面白いものがあり何か知ら旨いものがある、たゞ其れだけを見物人は知って居る。何處に、如何にしてそれらがあったかは見物人は知らない。……(同書p.84)
 次の考察・解説は参考になる。
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html(「日本オペラ史-浅草オペラ(菊池清麿)」)
 http://www32.ocn.ne.jp/~tsuzu/operetta-tanizaki.html(「谷崎潤一郎と浅草オペラ」)


【これまでの関連ブログ記事】
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130308/1362732050(「1930年代の半グレ=浅草紅團:2013年3/8」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110719/1311046389(『東京神楽坂を歩く・「痴人の愛」:2011年7/19』)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110919/1316407898(『谷崎潤一郎「人魚の嘆き」:2011年9/19』)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20111220/1324357487(「〈変質者〉谷崎潤一郎:2011年12/20」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120410/1334040816(「谷崎潤一郎と都市:2012年4/10」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130812/1376284767(「マクバーニー演出『春琴』観劇:2013年8/12)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130924/1380022782(「刺青について:2013年9/24」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140909/1410263300(「谷崎潤一郎細雪』をめぐって:2014年9/9」)

⦅写真は、東京台東区下町民家のオオムラサキツツジ(大紫躑躅)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆