夏の乳房・春の乳房


 3/1(日)夜WOWOW放映の『そこのみにて光輝く』を観た。呉美保監督の作品で、主演は綾野剛佐藤達夫)、池脇千鶴(大城千夏)、菅田将暉(大城拓児)。原作は、1990年にみずから命を絶った佐藤泰志。こちらは『海炭市叙景』を読んだのみで、この作品は未読である。むろん映画と小説の作品は別であるが、この映画には間違いなく『海炭市叙景』で知られた、佐藤泰史の暗さへの偏倚とでもいうべき世界が視られる。あらすじの紹介は、公式サイトに譲ろう。
 http://hikarikagayaku.jp/(「『そこのみて光輝く』公式サイト」)(閉鎖)
 http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/106249/index.php?m=01
         (「WOWOWオンライン『そこのみにて光輝く』」)   
 脳梗塞で倒れ寝たきりになりながら性的欲望だけは旺盛な父に體で応えてやりつつ、造園業者の愛人としてお手当を貰う一方、うらぶれた街のスナックで娼婦としても働いている千夏と、山のハッパ(ダイナマイト)仕事で若い作業員を死なせてしまったことに、現場監督としての責任に苦悩する達夫、ともに心に地獄を抱えた二人が貪るように互いの體を求めつつ、絶望の果てに海辺の朝の陽光の下で微笑みを交わしあうのである。千夏の弟拓児は、姉がようやく愛しあえる人に出会えたとひそかに悦んだのに、過去の犯罪で仮釈放中の身の身元引き受け人の造園業者社長が姉をただの玩具として扱っていたことを知り、祭の最中にたこ焼きピックで何回も刺してしまう。結果的に殺人未遂であった。
 拓児を殴ってから交番まで達夫が自転車に乗せて送り届けるシーンも、この映画の中で優れている一場面である。ただ怒りに任せて人を殺そうとした拓児は、『異邦人』の殺人者ムルソーではなく、粗暴であっても心やさしい若者である。交番に入っていく拓児を黙って道のこちら側で、達夫は見届ける。人の世を生きる悲しみと優しさ。たしかに「そこのみにて光輝く」。千夏は『罪と罰』の娼婦ソーニャのようでソーニャではなく、(キリスト教の)神に祈るのではない。海辺で見つめあう達夫と千夏に差した陽光は、阿弥陀如来の救いのようでもあるが、宗教的なるものの一歩手前で文学および映画の藝術性は成立しているのである。むしろ、情事の場面で見せた千夏の豊かな乳房こそが、地母神の慈愛を暗示していよう。
 この物語の季節は夏であるが、舞台は北海道の函館、ギラつくような太陽の下での安逸と心地よい怠惰ではなく、いわば黒い太陽の下での悲哀と絶望、そして憤りが漂っている。今度は、『海炭市叙景』の映画も観たいものである。

 
 さて本日暖かく、季節はようやく春である。春の夜の乳房を詠んだ室生犀星の句を載せよう。

春の夜の乳ぶさも茜さしにけり
はしけやし乳房(ちち)もねむらむ春の宵
    ※はしけやし:愛しけやし→愛しきやし。いとおしい。なつかしい。
春の日や乳當を干す鏡の間
娘子(まなご)らの乳房かたちづく春なれや

             —『室生犀星句集・魚眠洞全句』(北国出版社)