掌篇「あじさいの歌」


(わが家の裏庭の紫陽花)
 仮にOさんと呼ぶことにする。十年以上前に桜井浩と同じ公立高校の職場の図書室で働いていた。六十歳で退職してからも、嘱託という立場でそのままそこに居残っていたのだ。
 学校の図書室には当時司書教諭が一人割り当てられていて、Oさんはその職を定年まで勤めていたわけだ。浩が定期異動でその学校に勤め始めたころはまだ現役だったと思うが、彼の記憶が定かではない。  
 いつのころからか学校図書室は、学校司書一人が管理するようになっていた。何年か経って新しい校舎が完成し、その建物では浩のいた教科の部屋と図書室が同じ階の並びにあったことと、浩が朝の読書指導の分掌を割り与えられて、司書室に顔を出すことが多くなった。

 三十代後半にさしかかった女性の司書が、よく本にラベルを貼っていた。気まぐれでコーヒーを淹れてくれることもあった。浩は、この人をお目当てに頻繁に出入りしたわけではなかった。格別魅力的な色香のひとでもなく、愛想がよいわけでもなかった。図書室に流れるほかと違った時間の感覚を味わっていたのかもしれない。立場上からも、直接生徒指導に関わらない人と少し弛緩した会話を楽しむことができたのだった。
 教科の同僚は、近くで働いていても図書室を敬遠する向きがあった。「Oさんにつかまるとなあ」と言って、司書室を避けていた。浩は物好きと思われていたようだ。廊下でよくOさんに話しかけられて、浩のほうに視線を向けて苦笑しているひとを見ることも稀ではなかった。おそらくOさんは一方的に自分の見解をまくしたてていたのだろう。浩はなぜか呼び止められることも、司書室で声をかけられることもなく被害にはあっていなかった。「そのうち長時間話しこまれるぞ」と脅かす同僚もいた。
 浩が司書室でコーヒーなど飲んでいることを知ったある同僚は、「あそこの冷蔵庫のなか見たことあるのか?」と言った。Oさんの汗を拭くタオルが棚に置かれているの だそうだ。浩は最後まで司書室の隅にある旧い冷蔵庫のなかを覗いたことはなかった。すでに薄くなっていた髪はぼさぼさで、シャツもよれよれのを身にまとっていたOさんの使うタオルとともに入っていたものを口にすることは、たしかにイメージとしても気持ちのいいものではなかった。
 図書室が主体で発行する広報紙に、Oさんが毎回青春時代に読んだらしい文学作品について感想を載せることが始まった。浩もほとんど読んだ作品を取り上げていて、その感想には少なからぬ関心をもって読んだ。「いい歳してよくこんな恥ずかしいことを書くよな」と半ばあきれたように陰口を言う声を聞いたこともあった。浩は、むしろOさんの文学へのかつての情熱を意外にも知らされて驚きは感じても、その内容に軽侮の念をもつことなどなかった。 
 あるときの一行の文章には驚き以上のものを感じた。何の作品だったかは思い出せないが、登場人物たちの許されない愛をめぐって、「しかしこのような愛ほど苦しくまた極点の悦楽でもある」とさりげなく挿入してあった。身体全体に疲労と無気力を漂わせ、かろうじて職場に来ているだけと見える人間の漏らす感想とは、とうてい思えなかったのだ。

「ご存知の癖によくおっしゃいますねえ」
 と、沼野操子はなにかの感情を抑えたように言った。
「太った、というのは若い女にはショックなことばですよ」
 夏休み明けのある日、地理教室から出てきた彼女にからかい気味に、浩が声をかけたのだ。
 沼野操子は、長身で仕事中は、理科の教員から譲ってもらった白衣を身にまとっていた。白衣の下には、ノースリーブの花柄のブラウスを着ている。朝、浩は玄関で後姿を見ていた。スタイルの割には二の腕が少し太いか、と彼は思った。学生時代にわずかの期間モデルのアルバイトをしていたことも、彼女から直接聞いていた。彼女は自分の容姿には自信をもっている、浩は、転任してはじめて会ってことばをかわしたときからそう確信していた。

「あ、そんなもんなんですか」

「絶対に増えてないです。気をつけてますから」
 自分にも言い聞かせるように、沼野操子が言った。
 五十代も半ばに近づきつつあった浩に、このときは彼女のまぶしさがやや消えた感じがした。後ろ向きに怒った顔を見せて、彼女はいつもの早足で廊下を歩いていった。決して上体を前傾させない歩き方に、浩は見とれてしまった。
「ウォーキングの練習ももちろんやりました」と言った、彼女のことばを、浩は思い浮かべた。
 沼野操子は、浩がこの職場に転入して最初に話しをした一人だった。春の歓送迎会の幹事役ということで、彼に出欠を打診してきたのだ。坐っている彼の顔に垂れた髪で半分隠れた自分の顔をくっつけるように声をかけてきた。

「出席されますよね」
 仄かに香水の香りが漂った。
「それがあいにくまずいんですよ」
「ええ。そういうことですか、残念です」

 と、彼女は欠席の理由など追及することはなかった。出席するという答えを当然とするような声の調子に、浩は、思わず都合が悪いと答えてしまった。驚いた彼女の表情に惹かれるところがあった。
 はじめて出た教室の最前列の女子生徒にプリントの配布を手伝ってもらったことがあった。その子の両腕には、長いゴムバンドが巻かれていた。授業が終わって戻るときに、「そのバンドどうして?」ときくと、女子生徒は、「知らないほうがいいってこともあるんだから……」と怒りを抑えたような声で言った。職員室の斜め前の席にいた沼野操子にそのことを話すと、「リストカットしたんですよ。ふれないほうがいいですよ」と教えてくれた。
「どちらの腕ですか?」
「両方ですよ。1回だけじゃないんです、あの子は」
「そういう子には見えなかったけど……」
「教室では明るい感じなんですよ。両親が離婚して、父親が自殺しているんですよ。らしいですよ。」
「はあ」

 それ以来沼野操子と話す機会が多くなった。仕事に関わることよりも、映画のことが多かった。彼女は、イタリア語、英語は相当使いこなせ、いまはスペイン語を習っていると言った。イタリアにはほとんど毎年でかけていって、オペラやサッカーを見物、踊ってくるらしい。
「イタリアじゃ男性が放っておかないでしょう、これだけの美人を」
ヴェローナオペラは、浴衣で観に行ったのでずいぶん声をかけられたし……」
 彼女は、サッカーの中継を観ても日本選手とは比較にならない益荒男たちと、ちょうど釣り合いそうな肢体の持ち主と思えた。

「浴衣姿は映えるでしょうね、見たかったな。ヴェローナオペラはこちらで観たことあります。」
 思い出したように浩が言った。
「えっ、すごく高いですよ。何万円もしたはず」

「それほどでもなかったけど。横浜アリーナで」

 信じられないという沼野操子の言い方に屈辱というより、焦りを浩は感じた。説明にもっとことばと時間が必要だと思った。前の職場は有数の進学校ということがあってけっこうアルバイトの依頼が多かったのだ。ひと夏の仕事で数十万円の収入を得たこともあった。だから外国の有名な歌劇場のオペラなども鑑賞できたわけだ。そのあたりが、現在の職場が前から二校目で、どちらも学力の低い学校勤めの彼女には認識できていないと思えた。
 でもこの会話から、沼野操子がまちがいなく独身であると知ることができた。女性にはおそらく積極的なイタリア男性が、彼女に声をかけ、どこか潮風が長い髪を弄ぶ海辺で、激しく抱擁するイメージを想像した。はだけた浴衣はいっそう情欲を刺激したに違いない。ところが目の前にいる沼野操子は、そんな体験を微塵も感じさせず、ひたすらイタリアの映画やサッカーへの憧れを口にした。
ビスコンティなら、『山猫』のDVDもってます。今度お貸ししましょうか」
「あああれ、『イノセント』のほうが好きだけど、完全盤というやつもぜひ観たいもの」
「もってきます。『イノセント』いいですか?」
ラウラ・アントネッリ好きで……」
「ああラウラ・アントネッリ。あんな女優がお好きなんですか?」
「まあ。ほんとうはシルバーナ・マンガーノがやるはずだったんだそうですけど」
「ああ知ってます、シルバーナ・マンガーノ」
「そう、バラの名前にもなってますよ、黄色いバラ……」
「バラ? それじゃ、ジーナ・ロロブリジータと同じですねえ」
「ああそうか、ジーナ・ロロブリジータだあ」
 ラウラ・アントネッリは、その肉体の官能性に注目が集まる女優だということを咄嗟に思い起こし、浩はあわてたのだ。また、物覚えが悪くなってきたのかとの不安を覚られまいとした。沼野操子は、彼の顔を探るように眺めた。
「もってきます『山猫』」

 
 その後彼女が貸してくれた『山猫』のDVDを、昼休みに自分のパソコンで観た。バート・ランカスターが演じる人生に疲弊したシチリアの貴族が、パーティーで盛り上がっている娘たちを眺めて、「猿だ」と呟くところは、浩に印象が残った。進学の目的がないので、学校に来ているときの高校生の顔や姿はときに、人間でないのではと思わせた。ふざけあうことがいちばんの楽しみのように見えた。一週間の勉強時間が一時間もない生徒がほとんどだった。そのことを、沼野操子に言うと、
「ほんとに猿の集団に見えることもありますねえ」
「そんなこと言えませんがね」
「わたし、朝学校に近づくと、建物ごとみんな燃えてしまえばいいなんて思っちゃうこともあるんです……」
「それは危険ですな」
 浩は、何が危険なのかと自問しながら応じた。新米のころ彼自身が、「君は危険な考えだな」とだいぶ年長の同僚から言われたことを思い出した。そのときは、「危険」ということばに、なにか甘美な響きを感じたことも遠い記憶のなかから掘り起こした。

「いいんですか。あまりなれると危険な場合もありますよ」
 看護婦が警告するように浩に言った。人なつっこい表情をした大柄ではないが、豊満さを白衣に包み隠しているような女性だった。動きも俊敏だった。このひとが摘便の処置をしてくれるのか、と浩は思った。なぜかもっと男っぽい年配の看護婦が出てくるのかと勝手に想像していた。担当内科医師に「奥のトイレの前で待ってなさい」と言われてベンチに坐っていたのだ。「お腹がずいぶん張っていますな。摘便しますかな」と医師はあまり自信のなさそうな診断を下した。
 それまで四日間も便通がなかったのだ。はじめての経験であった。原因ははっきりしていた。歯科医院でもらった抗生物質によるものだった。それまでも浩は、抗生物質を服用すると、便が硬くなることが多かった。腸内細菌まで殺されて、腸内のはたらきが悪くなるかららしかった。「今度抗生物質を飲むときは、酸化マグネシウムを飲みなさい」と、内科医師が言った。

 障害者用のやや広いトイレだった。浩は、トイレの蓋に両手をついて尻をむけた。「入れますよ」という看護婦の声が聞こえ、身体全体が下から突き上げられた感じだ。我慢できないほどではないが、予想より痛みが重かった。「ちょっと、出そうですので」と言って、立ち上がり、呼吸を整えた。蓋が開けられ、排便の姿勢になったまま、看護婦が後ろに回って、再び突き上げてきた。かつて観た映画で、詩人のヴェルレーヌが同性愛の罪を調べられる場面を思い出した。取調官に指を突っ込まれ、苦悶の表情を浮かべるシーンだった。「はい、いきんで」という看護婦の励ましの声に押されて力を入れると、あれほど反応してくれなかった腸が一気に応えてくれた。「ああずいぶん出てますよ」との看護婦の声に、浩は少し涙が出てしまった。後ろに手を回し急いで、流した。
 狭い脇の空間を背後から戻るとき看護婦の身体が、浩に押し付けられた。秘められていた弾むような乳房の一瞬の感触があった。
「普段からうんと水を飲んでないと、こういうことになるのよ」
 と、浩の前に立った看護婦は言った。
「危険な場合もあるから、こういうやり方はあまりおすすめではないわね」
 出て行くときに、もういちど「危険」ということばを聞かされた。

「わたしっていつも危険なんですよ」
 と、沼野操子が言った。
「え、あぶない女ってわけ」
「違うの。過呼吸症候群というの、ご存知ですか。わたし、あれなんです、時々。この前のお休みも部屋でいきなり苦しくなって……」
「ええ、そんな風には見えないけど」
「誤解されるんです、わたしって」
 イタリア旅行中は発作は起きないのだろうか、ときき返したかったが、浩は言わなかった。
「この前の校長面接でも、服装が学校にふさわしくないって、注意されたし」
 ひとつの学期に一回、年に三回学校長の面接を受けて勤務状況について指導してもらう規則があった。今の学校は女性の校長であった。
「若い沼野さんに嫉妬しているんじゃないのかな」
「そんなこと。民間会社じゃないんだから」
 よく言ってくれた、という嬉しさを隠している感じだった。「若くて美しい沼野さん」と言えばよかった、と浩は自分をいまいましく思った。
「学校の前の歩道橋、冬の夜は暗くて怖い……」
「はあ」

 沼野操子は、転勤した前の同僚の男性のことを突然思い出したように話した。
「ずいぶん気遣ってくれて。彼も痩せ型の人で、時どき会うんですよ、いまも」
「それじゃぴったりじゃないの、そのひとは」
 浩は、ここで会話を打ち切った。ほっと安心するところもあった。
 二月になって、彼女は異動が決まったことを告げた。

やっと相手を莫迦にしないですむところで働けそう。いやこちらが莫迦にされそう」
「そんなことはないですよ。それにここでも沼野さんは、けっこう面倒見がいいじゃないですか」
「デートしようって、わたし何回か男の子に待ち伏せされたこともあります」
「どうしたの」
「ガキンチョ相手にしません」

 離任式の後、職員室で「ちょっとコーヒーでも飲みません」と彼女に声をかけられたが、傍らの人たちの視線を意識して、浩はつい「いま飲んだばかりなので」と断ってしまった。
 帰りに自分の机を見ると、浩の国語辞典の下にイタリア語らしいことばの書かれた水色のメモ用紙が顔を覗かせ、「もっとサロン的お話がしたかったです。沼野操子」と小さな字で記されていた。 
 前任校の学校司書が急逝したとの電話連絡を、夕方職場でもらった。葬儀場の説明のことばを、浩はうわの空で聞いた。信じられない思いがあった。

「どうして」
「子宮がんらしいです。詳しくは知りません」
 つて読書指導の仕事を一緒にした男が電話口で黙った。浩は参列するとも欠席するとも答えなかった。帰宅してから、それまで手にしたことのなかったOさんから贈られた歌集をパラパラめくってみた。むろん学校司書のことが歌われているわけではない。Oさんの青春の感傷が綴られていた。はっと息を呑んで次の短歌に眼がとまった。

あじさゐのむらさき濃くて濡れる日はつねには遠き人を想ひぬ」
そうかOさんには秘められた出来事があったのだ。それも危険な香りのするいとなみが」と、浩は発見にひとり感動した。それにしても廃人のように魂が抜けたOさんの印象とはあまりに断絶がありすぎる。Oさんはそこで燃え尽きてしまったのだろうか。それとも追憶のみを糧にしてかろうじて現在を生きているのだろうか。浩は、歌集を置いて想像をめぐらせた。
 歯医者の予約もあり、けっきょく通夜にも葬儀にも参列しなかった。前に治療した同じところが腫れて痛かったのだ。歯科医院の椅子に収まりながら、浩は危険の香りを失っては退屈だと、妙に悟ったように思った。しかし眼の前の鏡に写った男は、「男の更年期」を生きつつあるのか、その思いを裏切って顔の表情に生彩を欠き疲れているようだった。

 歯科医師のなにか尖った器具の先が、金属音を残して舌にあたった。瞬間痛みが走った。
「ああすみません。だいじょうぶですか」
 医師のあわてた声が聞こえた。
 口をあけたまま、浩は、「危険に満ちている」と声にならないことばを虚空に放った。