はなより花子


 NHK朝ドラ『花子とアン』の昨日と今日の放送回では、ヒロインのはな(吉高由里子)が安東花子の筆名で雑誌の童話作品募集に応募・投稿したところ、みごとに入賞するが作者の名前はなんと安東はな、そのことには失望してしまう話。はなは、幼少のころから、はなではなく花子と呼んでほしかったのである。はなのbosom friend(腹心の友)としての葉山蓮子(仲間由紀恵)は、伯爵家の令嬢である。「◯子」と子のつく名前のほうが貴族的で都会的であったのだ。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20140423/1398217272(「bosom friendとしての蓮子(≒柳原白蓮)」)
 http://www.nhk.or.jp/hanako/(「NHK花子とアン』」)

 子のつく名前をめぐる女性名の変遷といえば、金原克範氏の『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社:1995年初版)を思い起こす。題名の「頭がいい」に釣られるとトンデモ系の書と誤解を招くが、女性名の変遷と情報環境の変化との関連を数理社会学的に分析した論考で、現代社会論としては必読といえようか。
 同年齢の女性集団のなかの“子”のつく名前の人数比率を「保守的に命名された個体の比率=Conservatively Named rate(CNrate)」と呼び、問題ごとにその比率を調べて“子”のつかない群との特性の違いを考察している。面白い。表題の「頭がいい」問題に関しては、東北地方某県某市の私立高校合格者名で判定している。入試水準の高い高校ほど、合格者名にCNrateが高く、低い高校ほどCNrateが低いという、統計的に極めて有意な調査結果が出ているのである。むろん著者は、入試水準の高い高校合格者すなわち絶対的に「優秀」と即断しているわけではなく、違いが観察される社会現象が事実としてあることを指摘しているのである。
 むしろ、若い女性たちの情報受容をめぐる特性についての比較分析のほうが興味深い。高校入試以外に、いろいろな場での同年齢集団のなかでのCNrateを調査した結果が紹介されている。“子”のつく名前の女子で情報受容性が高かったのは、高校入試で必要な学習情報のほかに、ファッション、身体制御の項目であった。“子”のつかない女性においては、告白誌の告白(情報)、アニメーションの項目で高かった。この結果について金原氏は、分析している。
……高校入試に必要となる学習情報や、ファッション情報・身体制御情報は、受信者にとって将来活用できる情報である。入力の時点に価値をもつのではなく、出力の時点に価値をもっている。これらの情報は、その価値を未来に置いている、未来指向型の情報である。
 ところがフィクションや告白情報は違う。これらの情報は未来への価値をともなっていない。フィクションの主人公のように僕たちは行動できないし、告白された生活を自分で選び取る人もいないからだ。これらの情報は、将来的な活用よりも、コミュニケーションの場自体で活用される性質をもつ。出力に価値をもつのではなく、入力に価値をもつ情報である。これらの情報は、価値を現在に置いている、現在指向型の情報である。
 すると、現代型の女性とは、入力重視の情報的価値観をもつ、現在指向型の女性として捉えることができる。従来型の女性は、情報の価値を、未来に活用できる部分に置いている。しかし、現代型の女性は、コミュニケーションが行なわれる時点にだけ情報の価値を求めている。
 このような変化は、もちろん、本人に完全に自覚されているわけではない。人間は自分自身についての客観的な評価はできないのだ。そして、「シンデレラ」である現代型の女性たちは、自分のもつ価値観が自覚できないからこそ、周囲とのコミュニケーションギャップに悩み、解決の方策が見いだせないでいる。彼女たちを包んでいる見えないベールは、じつは彼女たち自身の内部にあったのだ。……(同書pp.108~109)
 女性名の変化は、1954年〜1964年の10年間で最大に起こっている。その主要因は、TVや雑誌などのマスメディアの普及に求められ、“子”のつかない女性名は、現代においては両親がメディアに依存する傾向にあったことを示していると、著者は分析している。
 この論考での「現代型」の射程距離がどこまで及んでいるのか保留するが、1981年刊行の『基礎社会学』(東洋経済新報社)全5巻をあらためて勉強し直したくなったところである。