花を花として

 井筒俊彦「意識と本質Ⅰ」(岩波文庫『意識と本質』)をつづけて読む。東洋哲学において、大乗仏教の哲学と同じく「本質」の虚妄性を認めその否定から出発しながら、形而上学的絶対無に終着する大乗仏教と異なり、変わらず絶対的無分節でありながら形而上学的絶対有=ブラフマンに辿りつくのが、シャンカラの不二(ふに)一元論であるとする。 
……ところで、本来、何かに所属していないものを、あたかも所属しているかのようにそれに押しつける、押し被せることを「付託」という。不二一元論の重要な術語だ。この術語の指示する線にそって考えるなら、我々の経験的世界は、我々自身の意識の「付託」的働きによって、様々に分節されて現われるブラフマン仮象的形姿にほかならない、ということになる。どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形でわれわれ(※ママ)の表層意識に映るのだ。絶対一者が客観的に自己分節するわけではない。……(同書p.27)
『経験的世界の一切の事物が唯一の「本質」を共有する、そしてまたまさにそのことによって無でなくて有である』という立場は、「東洋哲学のいろいろなところに、形を変えて繰り返し現われてくる」ということで、その一つとしてのイスラームにおけるイブン・アラビー系の存在一性論について触れる。構造的にはヴェーダーンタブラフマンと相違しない、唯一無二の真実在である絶対無分節の「存在」の分節的自己展開(ただし、展開過程の途中に中間領域としての「有無中道の実在」を置く)として、経験的世界の分節的多様性を説いているのである。
……もともと「存在一性論」とは、「存在」を唯一絶対の真実在とし、「本質」を無とする立場なのである。例えばいま眼前に咲いている花を花として見るのは妄念の働きにすぎない。本当は、花を花として見るべきではなく、花を「存在」の特殊な限定的顕現形態として見るべきなのだ。つまり花という現われの形のかげにひそむ唯一の真実在、「存在」の姿をそこに見なければならないのである。
 花を花として—というより、「存在」を花として—われわれに見せるものは、本来絶対的無限定者、絶対的無分節者である「存在」を分節し限定する「限界線」である、とイブン・アラビーはいう。(※この限界線にあたる)アラビア語がそのままイスラーム哲学では「定義」を意味する術語であることは注目に価する。もともと、「定義」とは事物の「本質」を言語的に明示したものであり、従ってここで「限界線」と呼ばれるものは、すなわち「本質」を意味する。……(同書pp.29~30)
 結局イブン・アラビーの本質論における立場は、「本質」非有説と「本質」実在説との中間にあるということになる。これで「意識と本質Ⅰ」は読了である。ヤレヤレ。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のリンドウ(竜胆)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆