マクバーニー演出『春琴』観劇




 8/9(金)は、東京世田谷パブリックシアターで、コンプリシテとの共同制作による、サイモン・マクバーニー演出『春琴』を観劇した。谷崎潤一郎の小説『春琴抄』とエッセイ『陰翳礼賛(In Praise of Shadows)』による舞台と示されているが、むろん展開は、鶯の「天鼓」を可愛がっていたこと、春琴が弟子のぼんちから梅見の宴に誘われたエピソードなどが省略されている以外は、原作の物語に忠実に沿っており、明暗のコントラストをより意識した舞台装置や、紙や着物などの小物の利用、手水の水の音、仕掛けなどに『陰翳礼賛』の日本文化論が鏤められている。
 ひさしぶりに『春琴抄』を読んでみた。昔は『日本の短編・(上)』(毎日新聞社)所収のものを読んだので、ルビが振ってあって個々の言葉の意味はともかく読み進めるのに難渋しなかった。今回所蔵の『谷崎潤一郎全集』(中央公論社)第十三巻所収の『春琴抄』を読んだ。ルビは少なく、「寔(まこと)に」、「慥(たしか)に」など少なからず出てくる語も馴染みのない漢字。「揣摩臆測(しまおくそく)」、「僣上(せんじょう)の誹り」、「絲竹の道」、「儕輩(さいはい)を抽(ぬき)んで」、「微恙(びよう)」、「忽諸(こっしょ)」、「毫釐(ごうり)の塵埃」、「「鐘愛(しょうあい)」、「鏗然(こうぜん)と弾く」などの語は、正確な意味は調べないと怪しい。「迦陵頻伽(かりょうびんが)=(仏)極楽にすむ鳥」や「勾當(こうとう)=検校と座頭の間の位」などは特別の領域の言葉で、梅林見物のエピソードで出てくる「疎影横斜」は、林逋(りんぽ)の漢詩「山園小梅」の第三句「疎影横斜水清浅(そえいおうしゃみずせいせん)」が出典である。自戒を込めていえば、読者がみずからの教養のなさを恥じ入ることになる小説なのである。 
 周知のようにこの作品は句読点がほとんどなく、いくつもの文章のまとまりの後に○で結ばれるという書き方がされている。慣れないと戸惑うだろう。「僕は日本語ができない」と語る演出家サイモン・マクバーニーは、公演パンフレットで述べている。
……昔の日本語において、句読点にあたるものは最小限しかなかった。そして役者に指摘されたことなのだが、『春琴抄』において文の切れ目をあらわす句点なしで文章が最も長く続いている箇所が、佐助が目を潰すくだりであるというのも、偶然ではない。なるほど、これなら自分に事態が把握できなかったのも、驚くにあたらない。というのも英語の翻訳ではこの文章は歯切れのよい短い文を連ねた形になっているのだ。ほとんどまるで、「明らか」にすることで原典の不明な部分に光をあてるかのように。しかしそれは谷崎の意図ではなかったのだ。彼は不明なるものを—陰翳を—作ろうとしていた。それは言葉が織りなす模様そのものにおいて、迫り来る盲目の感覚を喚起するためだったのである。……(パンフレットp.34)
 たしかに佐助が、顔に熱湯を浴びせられ爛れてしまった師匠=春琴の顔を見ないで済むように、自分の両眼に針を突き刺して失明する件の描写は、「それより数日を過ぎ…」以下「「お師匠様私はめしひになりました。」まで10行、句読点はまったくない。あえて感覚の迷路をさまよわせているのである。
 この小説は、私なる人物が大阪の浄土宗の某寺の墓地を訪れ、そこに眠る春琴と佐助の墓を掃苔してから、「鵙屋春琴傅」なる小冊子を主に、晩年の佐助に仕えた鴫澤てる女の証言を交えつつ、まるで史実を語るように構成されているが、むろん虚構である。なおこの小説はトマス・ハーディの『グリーブ家のバーバラ』という短篇に着想を得ていることを、不覚にもパンフレット掲載の演出家の「春琴を探して」ではじめて知った。舞台はこの構成にさらに、この物語をラジオ放送で一人の女性が朗読するという設定にして、その女性自身が私生活で親子ほど年の離れた青年との秘めたる関係を生きている、という入れ子の構造となっている。「私は演出家なので、あらゆるものをいま現在につなげて考えようとしています」と、サイモン・マクバーニー氏はインタビュー(聞き手:鴻英良氏)で述べている。
……晩年鰥(やもめ)暮らしをするやうになってから常に春琴の皮膚が世にも滑かで四肢が柔軟であったことを左右の人に誇って已まずそればかりか唯一の老いの繰り言であったしばしば掌を伸べてお師匠様の足はちゃうど此の手の上へ載る程であったと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此處よりはすべすべして柔らかであったと云った。…… 
 この「老人(笈田ヨシ)の繰り言」が晩年の佐助の回想場面で繰り返される。このリフレインによって、春琴と佐助の関係は構造的に不変のものであったことが暗示されている。幼少のころは人形、成長して仮面の女性、そして襲われる時には生身の女性(深津絵里)が春琴を演じる。終始声は黒子役の一人深津絵里が担当、瞬時の変化にも違和感がない。春琴は小柄ではあっても、「體は着痩せのするほうで裸體の時は肉づきが思ひのほか豊かに色が抜ける程白く幾つになっても肌に若々しいつやがあった」と描写されている。仮面の女性の半裸の胸は白くまぶしく、大きく豊かで息を呑んだ。このときばかりは、今回公演、C列が最前列の配置でH列2の席を興奮とともに悦んだ。そのあとの深津絵里も肌着の下に胸が隆起していた。嗜虐的ばかりではない、春琴の母性をも暗示していよう。佐助が盲目となって二人が共通の暗黒を共有し抱き合う場面こそ、繰り返しとリフレインの極点で成立したクライマックスである。感動的であった。
 出演者たちが背後スクリーンの光芒に向き合う。『陰翳礼賛』の日本文化が現代文明とどう対峙しようとするのか、演出家は問いかけ、〈コンプリシテ(共犯者)〉となってしまった観客は、オリエンタリズムには乗らないぞと思いつつも〈身体的〉共感を感じるのであった。
 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/raisan.htm(「陰翳礼賛」)
 http://dcrit.sva.edu/wp-content/uploads/2010/10/In-Praise-of-Shadows-Junichiro-Tanizaki.pdf(「In Praise of Shadows」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120410/1334040816(「谷崎潤一郎と都市」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20111220/1324357487(「〈変質者〉谷崎潤一郎」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110719(「東京神楽坂を歩く:『痴人の愛』」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110919/1316407898(「谷崎潤一郎『人魚の嘆き』」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130603/1370248538(「ヨシ・オイダ=笈田ヨシと『マハーバーラタ』」)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の(園芸名)カポック(Kapok)=シェフレラ(Schefflera)の実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆