蝸牛忌


 本日は蝸牛忌、幸田露伴の命日(1947年7/30逝去)である。ブログで「対髑髏」について触れたことがある。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120127/1327667652(「髑髏について」)
 たまたま届いた文藝同人誌(永野悟主宰)『群系』第31号「特集・明治の文学」のなかに、荻野央さんの「幸田露伴の『観画談』」が掲載されていて、はじめにこれを読んだ。作品は、手許に文庫本がなくとも「青空文庫」で読める。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/43787_28594.html(『青空文庫:「観画談」』)

 この論考では、「幻覚に意味を与える」噺である幻想譚として、この作品を解明しようと試みている。しかし、不発に終わっている。
……先生は絵の中へ失われていくわけではない。先生は境目を越えて、あちらに行くことができた。境域を越えたという実感にしか過ぎない先生の「体験が、彼をしてふたたび市井に回帰していくことになる。この経緯に対して解釈はまさに多様であり、さまざまな感想の声を得るだろう。……(同書p.28)
「さまざまな感想の声」などどうでもよい。まずは自分自身の「感想の声」を述べるべきであろう。大器晩成先生が学窓に姿を見せず、「山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了(おほ)するつもりに料簡をつけた」とあるを、「市井に回帰していく」とするのは、どうだろうか。「山間水涯」とは、山あいと水のほとりすなわち大自然のふところとでもいう場であろう。「市井」は俗世間のこと。田舎の貧乏な生まれの青年が「いくらか手蔓も出来て、遂に上京して、やはり立志篇的の苦辛の日を重ねつゝ」ようやく入れた学窓も、俗世間を構成する一つでしかない。その俗世間である学窓には戻らず、「日に焦けきつたたゞの農夫となつてゐる」姿を目撃されているとの、不確かな伝聞とはいえ暗示的な主人公の描き方を軽視している。もっとも「大隠は朝市に隠る」の意味で市中に戻ったとするのであれば、それはそれでよいだろう。
「明治の文学」のなかで博覧強記の幸田露伴の作品を解読するためには、まずは東洋的人生観を背景に考察することが求められよう。そのとき、われわれに欠けている素養が何か多少わかってくるのではないか。
 なお細かいことであるが、(注1)の「シュールレアリスム」は、「シュルレアリスム」だ。(注2)の「尽未来際」の意味として「仏教語で、未来永劫」とあるが、出典を明記すべきだろう。中村元著『佛教語大辞典』(東京書籍)によれば、「尽未来際」は「盡未来際(じんみらいざい)」で、「未来の果てに至るまで。いつまでも。永遠に」の意味とある。
 感動したのは次の論考である。
 http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/161/161-03.pdf(『幸田露伴「観画談」素描』池田一彦)

幸田露伴集 怪談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

幸田露伴集 怪談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のコリウス。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆