ルパージュの魔術・美人女優の裸

  
 昨日12/28(金)は、東京池袋の東京芸術劇場シアターイーストにて、ロベール・ルパージュ作、吹越満演出の『ポリグラフ嘘発見器』を観劇した。三人芝居を三本上演するという、東京芸術劇場の企画の第1弾の舞台である。出演の三人は、吹越満(ディヴィッド・ホスマン)、森山開次(フランソワ・トランプレイ)、太田緑ロランス(ルーシー・シャンパーニュ)。


 http://www.webdice.jp/dice/detail/3698/(「3人が語る」)
 ある女性が乱暴されて殺された事件があり、その容疑者の男=フランソワ・トランプレイが、犯罪心理捜査官=ディヴィッド・ホスマンにより、ポリグラフにかけられ、その容疑は晴れている。ディヴィッド・ホスマンは、もともとドイツ統一前は東ドイツの住人で、いまはカナダ国籍を取得している。フランソワ・トランプレイはレストランで働いていて、アパートの隣人ルーシー・シャンパーニュとは恋仲である。ところが、女優志望のルーシー・シャンパーニュが、モントリオールのある人の交通事故の現場で卒倒したときに、ディヴィッド・ホスマンが救助し、バスで3時間も離れたケベック・シティの自宅まで彼女を送ったことから深い関係に陥ってしまう。つまり三角関係である。
 フランソワ・トランプレイは嫌疑は晴れているのだが、警察の方針でその事実は容疑者=フランソワ・トランプレイには告げられないのだと、ディヴィッド・ホスマンは、ルーシー・シャンパーニュに言う。社会のシステム自体に嘘がある。ベルリンの壁は壊されても、人と人の心の壁は、維持されている。しかし欲望=身体は、いつまで耐えられるのか、青い照明の中3人の全裸の肉体が、本来の欲望のままの行為を、あたかも儀式のように執行する。あとの二人の男はどうでもよく、上手側出入口から退場しては、すぐ下手側出入口から姿を現す動きを繰り返し、男たちと戯れる、フランス人の父と日本人の母とに生まれた女優、太田緑ロランスのフルヌードの姿態のみを、わが視線は追いつづけたしだいである。堪能。
 始まってすぐにも、この女優=ルーシー・シャンパーニュが例の女性殺人事件を題材にした映画を撮っているということで、血の映像に映されながら淫靡な感じの恥毛も晒して全裸で立ち、いつでも女性が被害者となりうる事態を暗示させた。

ハムレット』での墓堀人の有名な台詞をこの女優=ルーシー・シャンパーニュに語らせる場面を挿入するなどしながら、映像と音楽とが虚実皮膜の間を造型し、洒落た舞台ではあった。フランソワ・トランプレイ役の森山開次は、かつて笠松泰洋作曲・台本構成・指揮の『ギリシャ劇「エレクトラ3部作」』(王子ホールでの公演)の第3話で、そのダンスの力には圧倒されたことがある。この舞台でもダンスの技の片鱗を観せている。


 太田緑ロランスは、2005年1月、カフカ作、松本修構成・演出『城』(新国立劇場公演)、そして2007年11~12月同『審判』(世田谷シアタートラム公演)の舞台で、不覚にもすでに観ている女優だとあとで知った。『城』では石村実伽(たしか裸になっている)に、『審判』ではともさと衣に注目していたからだろう。今後は注目したいものである。
ともさと衣太田緑ロランス写真は下記より拝借
 http://setagaya-ac.or.jp/kafka/archives/2007/09/23192422.php#more(「ともさと衣太田緑ロランスへのインタビュー」)
 なおかつてHPに記載した『審判』の観劇記を再録しておこう。

……11月28日(水)は、東京世田谷シアタートラムにて、松本修演出のカフカ原作『審判』を観劇。狭いところに急勾配に座席をびっしりと配置、3時間(途中休憩15分)におよぶ芝居の鑑賞は疲れる。主人公のヨーゼフ・Kの処刑が終わってほっとした観客もいたようであった。わが右隣の客は終始居眠りをしていた。「繰り返しの面白さ(くどさ?)なども、カフカの魅力だ。私の舞台ではそれもできるだけ省略せずに表現してみたい」(パンフレット)との演出方針であるから、物語の1年間が、デティールをきちんととりあげながら進行する。台本の元になっているのは、池内紀(おさむ)氏の翻訳(白水Uブックス)である。同演出の『城』も観て感動したが、こちらも面白かった。

 結末のヨーゼフの処刑は書かれてあっても、作品としては未完の作品である。知られている通りカフカの友人ブロートが作者の死後整理して刊行したもので、その65年後にカフカの手稿にもとづいたものが刊行されたとはいえ、未完成の作品であることに変わりはない。池内氏解説によれば「審判」のder Proze?はprocessでもあるそうで、物語の進行は遅々として進まない作品執筆の過程でもあるそうだ。当然劇の展開の過程そのものを味わうことを強いているわけだ。眠くもなるわけなのだ。
 池内氏翻訳に忠実に舞台化されていることがわかった。弁護士宅の小間使いレニ(ともさと衣)の「ひとつ、小さいけどあるの」とした右手の中指と薬指の「第一関節のところまで皮膜がのびている」のを見せられて、ヨーゼフが「なんと可愛い鉤の爪だ!」という場面が、たしか舞台では「水かきだ!」となっていたり、ヨーゼフが訪ねる画家ティトレリの家に侵入する背中の曲がった少女とその仲間たちは、まるでダイアン・アーバス撮影のフリークスのようであったり、最終章の前の「大聖堂にて」の章で銀行に登場するイタリア人顧客は、相手のイタリア語を理解するのに「唇が見えればいくらか助けになるのだが、髭が邪魔をする」人物のはずだが、舞台では、女性であったり、演出家の創造がある。
 かつてオーソン・ウェルズが監督(みずからも弁護士役で出演)した映画『審判』を観ているが、その時代は、「現代社会の不条理性」の追求といったテーマがことさら強調されていたと記憶する。作家の安部公房はさすがにオーソン・ウェルズが「カフカをリアリストとしてとらえたところ」を評価しているが、その場合でも、「現代世界において、いわゆる〈カフカ的状況〉が普遍的になっている現実」あってのこととしている。池内氏解説でも、情報化時代、または「管理社会」とよばれる時代の到来を、「二つとないほどの似姿で、まざまざと予告したかのようである」としている。しかしさて、いまこの作品で小説であれ、劇であれそのような衝撃を受けるだろうか。
 ともあれ銀行内部の描写ではピナ・バウシュPina Bausch)風の上半身の動きがあり、〈法廷〉場面では、カフカと同じユダヤ人演劇人タデウシュ・カントールを思わせるような人形の配置など、決して文学の僕にとどまらない演劇としての自立した魅力は十分な舞台であった。
 一人の役者が、ヨーゼフ・K(じっさいはK.=Kafka)を演じた笠木誠以外は何役も演じ分けるが、これは『十二夜』『ベニスの商人』など来日公演で観劇した「LONDON SHAKESPEARE GROUP」などではお馴染みで、戸惑いはなかった。この芝居では経費節約というよりはむしろ、現代人はひょっとすると置き換え可能の存在というメッセージともとれる演出だろう。
 映画ではロミー・シュナイダーが演じた小間使いレミを、ともさと衣が演じていた。原作では、「小柄な娘」となっていて背の高いともさと衣は、その点ミスになりかねないが、笠木誠が大きいのでバランスはとれている。くぐもったような声も悪くない。神秘的というよりも不可解さ漂うこの女性の味がよく出ていた。ともさと衣さんは、この11月28日がちょうど三十路の誕生日だそうで、ヨーゼフ・Kの30歳の誕生日で始まり、31歳の誕生日の前日に処刑されるこの物語の、舞台裏の主役としてふさわしい。アントワーヌ・コーベ(フランス)、ヨッシ・ヴィーラー(ドイツ)そして今回松本修と、現代世界最高レベルの演出家の下で舞台修業をしてきているから、この女優の将来に大いなる期待をもたざるを得ない。現代フランスの代表的女優イザベル・アジャーニも舞台から出てきたひとである。
 なお大急ぎで付け加えておけば、場面転換ごとの斎藤ネコの音楽は心地よく誘うものであった。音楽もこの舞台を味のあるものにした重要な要素であったのである。……(2007年12/6記)