picturesqueな庭園—英国式庭園


 今年もわが家のライラック(白)の木の葉が、芋虫(サザナミスズメの幼虫)に食い荒らされてしまった。アオジソの葉は、オンブバッタがいいように穴だらけにしている。近所を徘徊している野良猫たちは相変わらず庭に糞を置き土産にしている。この処理が日課となりかねない。とてもpicturesqueな庭園などとはいえたものではない。
 ところで「picturesque」とは、辞書的には「絵のように美しい」(旺文社『O-LEX』によれば、ほかに二つの意味あり)の意味であろうが、英国造園史・美学史の文脈においては、独特の意味をもつらしい。
 面白いので、英文学者高山宏氏の二つの旧い論考(もしくはエッセイ)の考察をメモとしてまとめておきたい。いずれもポーラ文化研究所発行の『is』に掲載されたもので、A=「風景庭園」(同誌26号・1984年)、B=「フローラル小劇場:ガーデニングの世紀末」(同誌77号・1997年)の二つである。

……ガーデニング・ブームをバックアップしているマス・メディアは基本的に「イギリス」を動かぬ記号としている。……(B)
 このイギリスで17世紀以降ガーデニング文化の妖花が咲いたのには、二つの大きな歴史的事件が要因となっているとのことである。一つは、ガリレオ以来の無限に開かれた宇宙空間の空間体験が、中世の閉じられた空間の安定性を砕き、怯えの日常を生んだこと。その慰撫としての庭いじりと庭礼賛文学の大流行ではなかったかということ。もう一つは、ピューリタン革命(1642〜51年)の凄惨な内乱図であった。みずからの存在形式を重ねていたとおぼしい、英国の小さく閉じられた地勢図が荒廃してしまったのである。
……清教徒革命に具体化してしまった人類堕落のヴィジョンを庭とそこでの植物の運命に見ようとする不思議な文化が存在したらしいのである。今どきのガーデニングにだってそのつながりはあるかもしれない。われわれの日常そのものが「失楽園」としてしか語れない状況にあるからである。……(B)
 本来の英国式庭園が誕生したのは、18世紀になってからであった。ユトレヒト講和条約がきっかけで、英国人が自由にフランス、イタリアを見て回ることができるようになった。この結果、1)アルプス越えの経験から、暗く危険なものとされていた山巓(さんてん)のraggedな(ごつごつした)魅力を〈再発見〉しての峩々たる高峰への憧憬と、2)左右の相称をくずすクロード・ロランや、全体的眺望など縁もゆかりもなく自然が繁茂するサルヴァトール・ローザなどのイタリア風景画の絵の発見がもたらされた。
 ホイッグ党政権下での反フランス政策の影響で、絶対王政イデオロギーを形象化して人工的調和と左右相称の理念を具体化していた、ヴェルサイユ宮殿の庭に代表される様式に対する反動を、英国人たちは求めた。「自然に帰れ」風の自然観が、左右不均衡で、羊腸(ようちょう)たる小径(こみち)や突兀(とっこつ)たる岩や廃墟、凹凸と起伏に満ちた英国式庭園を準備した。その自然をどう見るかについての方法と機構(システム)を導いたのが、イタリア風景画であった。「一枚の絵のように見る」というその美的馴致(じゅんち)機能こそが「picturesque」の意味である。
……自然をどう見るか、英国人たちは「理想」としての「風景画」を介してそれを身につけた。自然の模倣(ミメーシス)でしかなかった絵を介して自然を眺めていくこの行為の倒錯性に人々は気づかない。絵になるもの以外は除外され、かくて自然に帰れという主張はのっけから反自然への頽廃をはらんでいた。……(A)
 反フランスの行き着くところ、イタリアに飽きると中国庭園の反フランス的な部分にのみ執した奇苑が続々とつくられたりもした。この反フランスの依怙地なマニエリスムが克服されたのは18世紀末であるが、その後も英国式庭園の文化は続いていったのである。
 生ける画廊としての庭である英国式風景庭園(ジャルダン・アングレ)は、18世紀末から独仏から東欧、北欧、ロシアへと広がっていった。
……庭が所詮表象上の事件であることはヴェランダーは皆知っている。ぼくのヴェランダでもハイビスカスと野バラと変種の月見草が棚上に一線に並んで花をつけている。反自然的もいいところなわけだが、救いはやはり花の花芯の底に抑圧されながらじっと、しかし確実にひそむ命である。……(B)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上下白のブーゲンビリア(Bougainvillea)の花(3本)と萼(3枚)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆