ブルックの『魔笛』鑑賞

  
 3/24(土)さいたま芸術劇場大ホールにて、ピーター・ブルック演出の『魔笛』を鑑賞した。2幕3時間に及ぶ、モーツァルトのこの作品を再構成し、90分に短縮しての上演である。オーケストラはなく、一台のピアノ演奏で、アリアとレチタティーヴォ(語り)とのつながりや台詞にメリハリをつけさせている。音楽に無知なのでわからないが、原作の曲にはない、モーツァルトの「幻想曲ニ短調」などが使われている。歌はそのままドイツ語で、台詞は、初舞台がフランスであったことからフランス語が使われ、舞台上に日本語字幕が出ていた。
 当日夜の女王を演じたマリア・ベンディ=メラッド(ソプラノ)のアリア2曲「恐れるな若者よ」「復讐の炎は燃えて」は、透き通った美しい声で堪能。ザラストロは、ヴァンサン・パヴェジ(バス)。昔『魔笛』を初めて聴いたときのザラストロ役岡村喬生の声が重なってしまって、印象がぼやけてしまう。鳥刺しパパゲーノ(ヴィルジル・フラネ:バリトン)とパパゲーナ(マルティーヌ・ミドゥー:ソプラノ)との二重唱のところもシンプルで面白く、「ああ、『魔笛』だ」と思わせた。
 ザラストロが仕えるオシリスとイシスの両神は、古代エジプト神話の神で、ここのところがどうも馴染めない。ジングシュピールSingspiel=歌芝居)として人気を博したということだが、その物語の展開にはあまり感動しない。舞台は、たくさんの太さの異なる竹のその都度の配置と設定で、空間および状況を示す演出であるが、かつて銀座セゾン劇場でブルックの舞台は観ているし、それほど衝撃的でもなかった。「死ぬほど退屈」(小谷野敦氏)とされる能の舞台にも永く親しんで(眠って)きたこちらとしては、驚かない。ただ座席がS席I列30番は、この公演座席特別仕様で、最前列から数列目の席で満足できた。
 ピーター・ブルックのたえず挑戦する姿勢には敬意を表したい。芭蕉に通じるところがあるのかもしれない。『なにもない空間』(晶文社)で書いている。
……〈退廃演劇〉(※悪しき演劇のこと)のきわまったものはグランド・オペラである。オペラ演出とは、思えば瑣末な細部についての膨大な口論の悪夢、同じまわりを果てしなく堂々めぐりしているシュールレアリスム的悪夢にほかならない—何も変わる必要はないというわけなのだ。オペラのいっさいは変わらねばならぬ、だがオペラにおいてはいかなる変化も阻(はば)まれているのである。……(高橋康也訳)
【参考】
 http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/music/magicflute.htm(『魔笛』について)

なにもない空間 (晶文選書)

なにもない空間 (晶文選書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く沈丁花5。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆