宮崎アニメの少女

『樹が陣営(「33号」から「飢餓陣営」)』(発行:佐藤幹夫)というユニークな思想系の雑誌がある。2004年1月刊行26号は、特集の一つとして「性・渋谷・少女」のテーマを追求している。 
 そのなかの内海新祐氏の少女論は、宮崎駿アニメの「少女」はなぜイヤラシイとされるのかという設問に応えようとしたユニークな議論である。
『私が身近で出会い、見聞きする「少女」は、だれと友だちになるか、どのグループに入れるか、だれに好かれるかあるいは好かれないか、ということに莫大な注意と神経を消費している。それが人生最大の関心事のようでさえある。』
 ところが宮崎アニメの「少女」は、「不安定で覚束ない感覚を落ち着かせてくれるような友だちを必要としていない」のであり、現実の少女らは、宮崎アニメの「少女」が決して躓きそうもないポイントで難儀しているのだ、という。ときにはguiding starにもなりうる宮崎アニメの「少女」は、あまりにもまぶしすぎ、凛々しすぎ、打算がなくイヤラシクなさすぎるところが、イヤラシイのではないかと、内海氏は考える。なるほど、面白い。まあ、ヒーローやヒロインが現実の存在と乖離しているのは当たり前といえばいえよう。
  http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/index.html(「佐藤幹夫のHP」)
 ちなみに宮崎アニメの代表的少女ナウシカは、周知のごとくギリシア神話由来の名前であるが、この姫について、岩波『ギリシアローマ神話辞典』(高津春繁著)には次のように書かれている。

ナウシカアー(Nausikaa):《オデュッセイア》の第六巻に現われる有名な乙女。スケリアScheriaの王アルキノオスと妃アーレーテーの娘。カリュプソーの島から船出したオデュッセウスはふたたび難破して、スケリアの島に打ち上げられて、裸で海辺の茂みの中で疲れはてて眠っている。アテーナーナウシカアーに夢を送る。彼女の友だちの一人が夢の中に現われて、彼女が家族の着物がよごれているのをかまわないでいると非難する。彼女は父に乞うてろばの引く車を借り、洗濯物を積み、侍女たちと海辺に出かけて、洗濯を終り、鞠遊びに興ずるあいだに、鞠が海に落ち、彼女たちは叫び声をあげる。これに目を覚ましたオデュッセウスは貴女を見て、裸身を木の枝でかくして現われる。侍女たちは恐れて逃げるが、ナウシカアーはアテーナーに勇気づけられて、彼の近づくのを待ち、その願いを聞き、飲食物を与え、町へ導き、町の近くになってから、自分が見知らぬ男ともに歩いて、あらぬ噂を立てられないように、彼に道を教えて、一人で町に入らせる。彼女は彼のごとき人の妻になりたいと淡い恋心を抱き、父アルキノオスも娘をこのような人にと思うが、オデュッセウスにはすでに妻があり、この魅力に富む乙女のエピソードはこれだけで終る。しかし前5世紀の史家ヘラーニコスは彼女がのちにオデュッセウスの子テーレマコスの妻となって、一子ペルセポリスを生んだと言っている。
AKB48のなかで、もっとも少女っぽい魅力の峯岸みなみさん:写真の出所失念、ご寛恕。)