俳優・藤原竜也

 今月は、TV放送で、藤原竜也を2回観る機会があった。映画とTVドラマの二つだ。映画は、WOWOWの6/3(金)放映の『パレード』。行定勲監督の作品で、恋愛依存症の娘琴美=貫地谷しほり、小さいころのDVのトラウマに怯える、イラストレーター志望の女未来=香里奈、年上の女性で先輩の恋人に抱かれる男子学生良介=小出恵介らと、マンションをルームシェアする有能な映画会社勤務の直輝を藤原竜也が演じた。直輝は、じつは女性の連続暴行殺人犯で、途中から共同生活に加わった男娼の少年サトル=林遣都に、その犯行現場を目撃されてしまう。逆にそれ以前にこの少年は、若い女性の留守中の家に侵入しているところを、尾行していた直輝に観察されていたりと、それぞれが隠していた傷口が暴かれてしまう。サトルの闖入によって、微妙な均衡で保たれていたまぼろしの共同性が崩れてしまう物語だ。原作は未読であるが、犯罪のなかに現代的なるものがあり、その現代的なものをこそ描くことが文学的もしくは藝術的であるという、思い込みが前提にあるだろう。優等生的ながら狂気を宿した男直輝を藤原竜也がみごとに演じているが、全体としてつくりものの空虚さが漂い、貫地谷しほりの琴ちゃんの可愛さばかりが、とくに印象に残った。


 TVドラマのほうは、6/17(金)フジテレビ放送の『ブルータスの心臓』。産業機器メーカーでロボット開発を担当するエリート技術者を、藤原竜也が演じた。社長=風間杜夫の娘=芦名星との縁談が進んでいる彼が、妊娠したので養育費を支払えと脅迫する愛人=内山理名を殺し、出世の野望を遂げようとするが、失敗し、開発中のロボット「ブルータス」の腕で扼殺されてしまう物語。くらい生い立ちのことなど、松本清張仕立ての結構と展開で、面白くはあるが、この主人公は最後はロボットに始末されるなと予想が立てられる。たしか嵐・相葉雅紀&貫地谷しほりの『バーテンダー』にも出ていた、芦名星は美形である。
 むろんTV junkieではないので、俳優・藤原竜也であれば、舞台『身毒丸』についてとりあげるべきだろう。3年前のわがHP記載の観劇記を再録したい。

◆3/15(土)に、寺山修司・岸田理生作、蜷川幸雄演出『身毒丸』(於彩の国さいたま芸術劇場大ホール)を観劇した。今回念願かなって初めて観ることができた。中世説教節(説経)以来の「俊(信)徳丸」伝説をもとにして、寺山風味の血とエロス濃き「母—子関係」の物語が展開している。数台のグラインダーが轟音とともに舞台上から火花を放ち、下を無時間のなかを漂うように、荷台を引いた群集が奥から現われる。それこそ〈速攻〉でこの演出家の世界に引き込まれるのだ。〈近代〉のくらい深層に底流する物語の幕開けですよ、と蜷川が誘う。観客はすでにして酔わされてしまうのである。
 倒産したサーカス小屋の母市で継母として買われた女=撫子(白石加代子)は、「母」という役割・道具としての自分を演じきれない。亡くなった実母への思慕が断ち切れず「家族秩序」を脅かすしんとく(藤原竜也)の存在のためだ。そこで撫子は、呪いの行為(フレーザーの「類感呪術」)によってしんとくを盲目の放浪者にしてしまう。追放されたしんとくは、荒ぶる魂をもって撫子の連れ子であったせんさくを犯し、この家族関係を崩壊させる。もはや「母」ではあり得なくなった撫子は、「男」として成長したしんとくと結ばれ、闇のなかへの道行きとなって消える。物語の表層だけ見れば、「家族関係」という柵(しがらみ)と世間が押しつける道徳からの、個人と情念の解放という、主題としてはもはや陳腐となった〈近代〉のドラマであるが、どっこいそう単純な構造ではない。
 中世説教節(説経)の救済のドラマが、寺山好みのサーカス世界の猥雑さと遊び心の舞台に展開しているのである。共同脚本の岸田理生氏がかつて書いている。
『……地獄墜ちの貴種童児たちが、ある者は「あなたこなたを這いまわる」餓鬼となり(『小栗判官』)、ある者は「高手小手に縛」られて桜の木に吊され(『愛護若』)、ある者は癩者となる(『しんとく丸』)、といった説教節の持つ陰惨なエネルギーについて松田修氏は、「復讐、怨念、血、それらは、仏教=信仰の論理からはみだした別の価値体系」であり、救済に至るまでの「いうならば跳躍のための助走が、時に短すぎ、時に長すぎるアンバランスなところが説教の生命力の証し」であると語っている。
 そうした超条理性を過去と現在とが一瞬の内に交錯し、又、背中合わせに同居する一種のからくりとしてとらえ直した時『しんとく丸』は単なる因果譚から、ユングの言う「共時性」を内包した、新しい『身毒丸』へと変身したのである。』(『寺山修司の仮面画報』平凡社
「信徳丸」という仮面音楽劇を、今は閉館した文京区三百人劇場にて昔観劇したことがある。丹野一雄作、西森守演出、仮面制作正法寺美子で、信徳丸を救うことになる乙姫を、当時においても「往年の名女優」と誉れ高かった朝霧鏡子が演じて、話題になったことを記憶している。今度の舞台の撫子には、「俊(信)徳丸伝説」の河内の長者の新御台と乙姫の両方が混在している。歌舞伎の『摂州合邦辻』の物語の構成に近いようだ。同じ伝承に基づく能の『弱法師(よろぼし)』は、水道橋宝生能楽堂にて、 1981年3月5日に、三川泉のシテ、宝生弥一のワキで鑑賞している。血の気の多い「俊(信)徳丸」伝説の系譜にありながら、こちらは、かつて能に詳しい中上健次がたしか小説で「弱法師のように立ち上がり」とか書いているように、春の四天王寺境内における盲目の物乞いの遊狂をシンプルに描いている。元雅か世阿弥が物語をそぎ落として構成したようだ。ぜひもう一度観たい能の名曲である。
 折口信夫死者の書身毒丸』(中公文庫)所収の『身毒丸』は、巻末(附言)によれば、「高安長者伝説から宗教倫理の方便風な分子をとり去って、最原始的な物語にかへして書いたもの」で、「伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見た」のであり、「ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂く」狙いのようである。「しんとく丸」伝説などのいわゆる「貴種流離譚」の語りの芸能の原初形式を知るには必読だろう。しかし小説として読んでも、源内法師が慕う遺伝性の業病をもつ身毒の肢体の描写は、妖しく艶かしく印象的である。
『身毒は板敷きに薄縁一枚敷いて、経机に凭リかゝって、一心不乱に筆を操っている。
捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、油が二すぢ三すぢ流れていた。
源内法師は居間に戻った。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残った。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮かべるだけでも心が痛むのである。そのどろどろと蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。彼は持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせたまへと祈った。』(中公文庫同書)
 サーカス小屋が建ち、米軍基地があった青森の地で、米兵に身体を売って暮らしを支えてきた母の仕事を、黙って待つほかなかった寺山修司少年の、「母」なるものへの哀しい思いがこの舞台に終始漂っていたと記したら嘘になろうか。(2008年3/20記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のベゴニア(Begonia)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆