トラウマについて

 精神科医斎藤環氏の『生き延びるためのラカン』(basillico)は、「日本一わかりやすいラカン入門をめざした」、ラカンの理論を解説した書である。行きつ戻りつして読まないとわからない。なにしろこちらは、ラカン派のスラヴォイ・ジジェクは読んでいても、本家のラカンの著作そのものを読んでいないのだから、読者としては落第である。
 ラカン理論では、人間世界を、直接に認識したり理解したりすることができる想像界(「鏡像段階」を起源にした視覚的イメ−ジの世界)、直接に認識はできないけど、分析することが可能な象徴界(構造化されたシニフィアン)、認識も分析もできない現実界(カントの「物自体」や荘子の「渾沌」と重なるようだ)の三界から成り立っていると説明している。この三界は、通俗的解説で「階層構造」として捉えられているのは間違いで、イタリア・ルネサンス期に栄えたボロメオ家の紋章から採用された「ボロメオの輪」の図式で示されるように、それぞれがもたれあって成立している。すべての愛なるものは、この「鏡像段階」で生まれた「自己愛」の変形なのだという。
 欲望の原因であるとともに、いろいろな幻想を生み出す力をもっている「対象a」についての記述が面白い。
『ところで、去勢から生じた対象aは、けっして欲望の対象ではあり得ない。僕たちの欲望は、いつも対象aの周りをぐるぐる回りながら、けっして対象aそのものにたどり着くことはない。たとえば恋愛しているときを考えてみよう。僕たちは恋人の外見ではなくて、心の美しさをしばしば賛美しようとする。このとき恋人がうちに秘めているはずの、謎めいた素晴らしい「心」の存在こそが「対象a」ということになる。ところが残念なことに、しばしばそういう「心」は存在しない。』
 プラトンの『饗宴』において、青年アルキビアデスは、ソクラテスのなかに「輝くばかりの宝物」が実体としてあるかのように感じ、それ(=アガルマ)に憧れ欲望をいだいた。しかし、このアガルマとしての「ソクラテスの欲望」とは、「知への欲望」であり、空虚な部分である。この空虚なアガルマこそが、「対象a」であるのだ。「対象a」としての「知への欲望」を欲望すること、ここに「転移」現象の本質があるという。
『あの地動説のガリレイがこんなことを言っている。「他人になにかを教えることなどできない。できるのは、自分で発見することを助けることのみだ」とね。これなんか、すごくよくわかるな。このガリレイの言葉は、教育はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。「発見を助ける」ってことは、発見をしたいという欲望、つまり「知への欲望」を、転移を通じて伝えることにほかならないからだ。』 
「トラウマ」とは、「あまりに現実的すぎるために、いつでも強い不安を呼び覚ます体験のこと」で、「トラウマという形式の中において、現実的対象との出会い損ねが反復される」。「トラウマ」の程度というのは、「その体験を語り得るか否かで、ある程度判断できる」らしい。具体的かつ詳細に「トラウマ」を語る人の場合、「語っているうちにどうでもよくなってくることさえある」程度に比較的軽いことが多い。「重いトラウマ体験っていうのは、どうしても簡単には語れるもんじゃない。それを語れるようになるまでうまく導くのが、治療者の仕事ということになる」。なるほど。


 都立上野高校軽音楽部出身の、AKINO LEEさんがvocalおよび作詞担当の「コロバ・ミルク・バー」のアルバムCD『1980s in 21C.』(スピードワークス)に、「トラウマスター」という面白い曲がある。
「トラウマ語り 傷の無い心の自傷
 トラウマばかり 傷ついた自分に酔って嘔吐」 
 これは辛辣。たしかにそんな人物がいるようだ。語れるようなら、軽いわけなのだ。シニフィアンの戯れに満ちたこのアルバムの音楽を聴いていると、かつての尾崎豊の音楽などは、近代的主体をめぐる近代文学に類縁性があると思えてくる。
 http://coloba.web.fc2.com/(「新生コロバ・ミルク・バー」)

LOVE SONGS

LOVE SONGS

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の道端に咲くドクダミの花(植物学上は、中の黄色い柱が花の群:地下茎を伸ばし、今ごろの季節街のいろいろなところに花を咲かせる。「十薬」とも称され、薬用に供されてきた。)小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆