文学としての小説

 本日の「東京新聞」夕刊の「文芸時評」で、担当の沼野充義が書いている。
『「ポストモダン」という言葉はよく耳にするが、ポストモダン文学とは何なのか、となると誰にもよくわからない。ところが、先日ある作家に「何も書くことがなくなっちゃったってことでしょ」と言われて、なるほど、と感心した。/日本近代の作家たちには最後の砦として「私」が残されていて、「私」さえ描いていれば小説は恰好がついた。しかし、「私」にばかり閉じこもっていると、自我の自家中毒になって、書くことがなくなる。』
 その認識を自明としつつ、なお書こうとするのでむずかしい。昨年は、掌篇2篇。今年もぼちぼち、多少多いペースで創っていきたいものである。かつてHPに載せた、川西政明氏の『小説の終焉』(岩波新書)のreviewを再録しておきたい。 

◆みずからを「日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う」文芸評論家の川西政明の『小説の終焉』(岩波新書・04年9月初版)を遅まきながら、読んだ。二葉亭四迷の『浮雲』から敗戦までの約60年(前期)、敗戦の日から現在までの約60年(後期)に、「多くの小説が書かれ、多くの実験が積み重ねられた」が、もはや小説の主題は「一九七〇 年代には書き終えられてしまった」のではないか、というのが論旨である。「私」も「家」も「神」も「性」その他これまで追求されてきた主題は、ことごとく切実さを喪っているだろう、ということである。
 これらの主題を扱った作家、芥川龍之介志賀直哉川端康成太宰治大江健三郎村上春樹らの仕事を整理し、いま同じ主題をとり上げる困難さを指摘する。さらに時代の課題であった「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史(近代史)」についても、もはや小説における新たな表現は不可能な地点にあるのではないかと、時代の代表的作品の意義をまとめつつ問題提起している。あくまでもエッセイとして書かれた小品なので、作家論・作品論を期待しては物足りないが、これまでの川西氏の仕事を踏まえての指摘であるので、逡巡のない議論展開であり、説得力がある。むろん川西氏は、絶望を語りたいのでもなく、小説に引導を渡す意図でもない。「小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊穣な世界が創作されなければならない」との願いで、その「判断の土台になるものを提示するために」本書を書いたそうである。志に敬意を表したいが、しかし、創作する立場に立つと、なかなかそんな展望になんぞ付き合ってもいられない。ひとは文学史のために小説を書くのではなく、書きたいことがあって書くのだからである。主題の喪失ということでいえば、『旧新約聖書』においてすでに文学的主題など書き尽くされているのではないかと、室生犀星の口吻にならって述べることもできるだろう。とはいえ、たしかにいま切実に書きたいものなどじつはないのである。さてどうしたものか。(09年3/30記)

⦅写真(解像度20%)は、東京上野東照宮境内の(万馬券的中を約束する?)ミツマタの花芽。小川匡夫氏(全日写連)撮影⦆