ロードムービーの傑作2作品『バニシング・ポイント』&『ダウン・バイ・ロー』

バニシング・ポイント』は、昔(1971年)有楽町スバル座で観ている。ジム・ジャームッシュ監督の『ダウン・バイ・ロー』と並ぶ、ロードムービーの傑作であろう。もっともそんなに多くの映画を観ているわけでもなく、あくまでもn=個人として観た作品数での評価である。なお『ダウン・バイ・ロー』は、これまで観た全映画の中でもベスト10に入れたい映画作品。この映画のラストシーンには、身震いするほどの感動を覚えたものである。





 

ルキノ・ヴィスコンティ監督『イノセント』はわがベストワン映画

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永井選手2点目のゴール!(対柏レイソル戦)おみごと

 

何でも周回遅れで欧米に追随するな

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▼キャッチアップ精神が生き続けているから、日本人はアメリカ人・イギリス人と比較して、能動性・自立性が欠けている(アクティブでない)と感じられるのです。そして、その欠落を埋めるために教育を変えれば、日本の子供たちは創造的になり、最終的に日本の経済や社会が良くなると信じられるわけです。
 この信仰がとても強いためか、アクティブラーニングはアメリカでは主に大学レベルの教育政策であるのに、日本では小学校から大学まで大々的に取り入れる方向に進んでいます。このようにアクティブラーニングは、元々の文脈から拡大されて輸入されているのです。
 さらに悪いことに、日本はアクティブラーニングを輸入したことさえ忘れてしまっています。ですから、輸入元のアメリカでその後どうなったのか、調査も報道もされません。実は、輸入元のアメリカではアクティブラーニングはすでに下火で、今は「反転授業」という手法のほうが盛んです。これは、生徒があらかじめ教材を学んだのちに授業に参加し、教室ではより高度なディスカッションなどを行うというものです。(p.189)▼

 

吉宗(冨永愛)と久通(貫地谷しほり)

 

沈丁花(ジンチョウゲ)は夜の闇にも芳香を放つ

 

アリストテレスから学ぶ

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アリストテレスの『自然学』第2巻第1章には「けだし、これら〔自然的に存在するものども〕の各々はそれ自らのうちにそれの運動および停止の原理〔始動因〕をもっている。そして、その或るものは、場所的意味での運動および停止の原理であり、或るものは量の増大・減少〔成長・萎縮〕の意味でのそれであり、或るものは性質の変化の意味でのそれである。」(岩波『アリストテレス全集・3・出隆訳』)とあり、第2巻第8章には、「実のところ、技術は意図をもっていないのである。そして、もし木材のうちに造船術が内在するとしたら、それはその自然によって〔造船の技術によってと〕同じように船を造り出すであろう。だからして、技術のうちにさえなにかのために〔目的合理性〕が含まれているとすれば、むろんそれは自然のうちにも含まれているはずである。」(同書)とある。熊野純彦東大教授の『西洋哲学史・古代から中世へ』(岩波新書)は、中世哲学に頁を多く割いていて、神の存在に関する論証の形式など大いに勉強になるが、現代哲学・思想とされるものが、当たり前ながら実は現代西洋哲学・思想であることを思い知らされる名著である。哲学的思索の伝統に則って、近代・現代の問題意識と思索があることが具体的によく理解できるのである。次のところもその一例である。

『技術はたしかに、一方では自然がなしとげることはないことがらを達成する。とはいえ、そこでも「技術が自然を模倣する」のであって、逆ではない。—労働するとき、人間は自然のふるまいにしたがい、素材のかたちを変えるだけである。素材にかたちを与える労働にあって利用されるのも、自然力にほかならない。のちにマルクスがそう書いたとき、アリストテレスの発想が念頭にあったことはまちがいない。』
 地球的規模で対処しなければならない食糧問題・環境問題などを考えるとき、「無為自然」の老荘思想への回帰を訴えるだけではどうしようもないのである。(06年5/27記)▼

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▼内山勝利京都大学教授の『哲学の初源へ・ギリシア思想論集』(世界思想社)は、改めてギリシアの精神史・思想史について学ぶこと多かった本である。 古代ギリシア文化発祥の地イオニアのサモス島は、ピュタゴラスの故郷であり、対岸のミレトスと並ぶ繁栄を誇っていたという。ペルシャ人によって最後は虐殺された独裁者ポリュクラテスの支配下で、町を包む「カストロ」と呼ばれる山を貫いて巨大な(今日の実測によれば全長1045メートルの)トンネルが造られた。町に山の向こうの水源から水を供給するためのトンネルと考えられるが、トンネル内の路は同じ高さで掘られ、トンネルの入口も水源から離れ水道管のみ勾配が造られていて、はなはだ非効率な工事が行われたようだ。命じたポリュクラテスも、工事を担当した建築技術者のエウパリノスも、トンネル工事をつき動かしたのは、「時代精神」としての「知恵で名を挙げよう」という「知的功名心」だったのだ。内山教授は、ここにギリシア的な知性の象徴があるのだと説いている。
『とりわけ「哲学」というギリシアパラダイムの成立は、サモスのトンネルにみなぎっているような知的風土に負うものが大きいのではないか。もともと「フィロソフィア」(よりギリシア語風には「ピロソピアー」)という言葉には、「知的好奇心」を直訳して充ててもけっして見当外れではないようなニュアンスが込められている。むしろ、この新たに見いだされた心的活動に対して新たに造語されたのが「ピロソピアー」という言葉であったと言ってよい。その語感は、文字どおりの「学」としての哲学を大成したプラトンアリストテレスにおいても、鮮やかに息づいている。』▼

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アダム・スミスからマルクスに継承された「労働価値説」は、その思想史的淵源は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にあるのだそうである。アリストテレスにとって、靴と農産物のように比較の共通性をもたないものの間で「交換的正義」を実現するための基準として、「クレイア」を考えた。これは、「必要」という意味である。生産物を必要としている者、その必要さに対処できる技術(テクネー)をもった者との間に交換が成立するとしたのであって、労働の成果というとらえ方ではなかった。ところが中世の時代においては、「貧しさ」と「労働」など〈卑俗〉とされてきたものに価値が認められ、『ニコマコス倫理学』の「クレイア(必要)」は「オプス(成果)」というラテン語で訳された。この「オプス」を労働の成果と解すれば「労働価値説」になるわけである。
 ところがマルクスは、この「クレイア」をちゃんと「ベデュルフニス(必要)=Bedürfnis」と訳している。「マルクスアリストテレスの『ニコマコス倫理学』をちゃんとギリシャ語で読んでおり、古典派の解釈を介すことなく自分の翻訳でやっているんですね」ということだ。「ドイツでギリシャ語をじかに読み始めた世代」のヘーゲルも当然『ニコマコス倫理学』をちゃんと読んでいるから、いわゆる「欲求の体系」としての市民社会という語も、「必要の体系」と理解すべきではないかと述べている。驚いた。ある段階から市民社会は、中世共同体的「必要の体系」から「欲求の体系」に変貌してしまったというわけだ。▼

simmel20.hatenablog.com▼ アリストテレスについての、猫氏の見解は面白い。
倫理学は若い人にはふさわしくないというのは、逆もまた真だな。人生経験の豊富で世知にたけた大人には、倫理学なんか絶対にできない、ともいえる。若い人というのがプラトン的な理想主義の象徴で、大人というのがアリストテレス的な現実主義の象徴なのだとすれば、その二つは、じつは、そんなに違わないんだよ。プラトンアリストテレスが、じつはそんなに違わないようにね。これも象徴的な言い方になるけれど、もし十五歳から二十九歳までを若い人と呼んで、三十歳から六十五歳までを大人と呼ぶなら、哲学ができるのは、それ以前かそれ以後の、しかしそれに近いほんの一瞬だけなんだ。』▼

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▼『適度の理論の幻影を完全に追い払うために強調しておきたいが、アリストテレスは、優れた性格は行動に対する中庸的性格であって、中庸的行動をとるような気質ではない、と明言している。極端な行動は状況次第では適切なものであり、優れた性格の人もこれを行う。すなわち、気性の優れた人は、些細なことについては激しく怒らず、非道な行いに対しては激怒する。それに対して、怒りっぽい人は些細なことでも過度に怒り、おとなしすぎるか、あるいは無感情な人は、最悪の暴挙に対してもほとんど怒らない。』
 つまり、「中庸の理論を、あらゆる場合に情動と行動の極端を避けるべきだという適度の理論とみなしてしまう」のは、アリストテレスの考えと異なっているということなのだ。怒るべき時は、「適切に」怒るべきだということになる。しかしメディアに誘導されて、〈怒る〉形式で自己主張するのも警戒したいところで、的を射るということは、なかなかむずかしいことである。▼

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▼なおアリストテレスが「第一哲学」とした「metaphsica(メタフユシカ)」は、前置詞「meta」が、「〜の後に」のほか「〜を超えて」の意味をもつことから、配置として「自然学の後の書」であった「タ・メタ・タ・フユシカ(taは冠詞)」が、「自然を超えた事がらに関する学」=「超自然学」という意味になったものを、「形而上学」と訳したのは、「明治初期の研究者たち」が、その意味がわからなかったからのようだ。
 プラトンの世界像は数学的であり、アリストテレスのそれは動的で生物主義的(可能態→現実態)である違いはあるにしても、目的論的運動の最終目的である「不動の動者」としての「純粋形相」を導き入れた以上、「アリストテレスはたしかにプラトンの超自然的思考様式を批判し否定しようとはしたのですが、結局はそれを修正しながら受け継いだということになりそうです」。▼

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アリストテレスの議論では、感覚の中でも「先ず第一にすべての動物に属しているのは触覚である」とし、感覚をもつそれぞれにおいて各々の感覚に共通な能力は「同時に触覚とともにあることが最も顕著である」ことから、睡眠が起こるのは、「すべてのものを感覚するところの第一感覚器官においてそれが起こる場合」ということになる。 
「放心や或る種の窒息や失神」も感覚能力の喪失を生ずるが、睡眠の場合は、「栄養〔の過程〕に伴う蒸発よりしてこの様態は生ずる」ところに違いがある。食べ物の流動物と固形物とが食後上昇し、あるところで逆転して下降し、「熱を押し出す場合には、いつでも睡眠が起こり動物は眠るのである」。酒など呑むと眠くなるのは、それからの「蒸発が多量だからである」ということになる。同じ原理で、上体の大きさが下体の大きさに比して勝っている「幼い子供は食物が全部上昇するために甚だ多く眠るのである」。
 同書「訳者注」によれば、「睡眠にとって内在する熱が始動因、栄養の蒸発物が質料因、睡眠の定義が形相因、保存が目的因である」。▼

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▼とり上げられるのは、初期イスラーム哲学史を彩る「原子論」論争、即ち、因果律論と原子論の対立である。イスラームの思想家たちがアリストテレスから学んだ第一のものが、因果律的思考法であった。因果律的存在理解とは、ある条件の下で物事には必ず原因となるものがあって、その作用の結果として生起すると捉えることである。このことは、ものにはものの「本質」があるという把握が前提になければならない。例えば火が紙を燃やすのは、火には火だけに固有のものを燃やすという「本質」が備わっていると考えられるからである。かくして『因果律の支配する世界とは、一切の事物がそれぞれ自分の「本質」をもち、自分の「本質」によって規定され、限界付けられ、固定されている世界でなければならない』。極限的には、たった一つの例外もあり得ない、つまり偶然性の完全に否定される世界ということになる。イスラームの原子論者からは、批判される。▼

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▼「悲劇の激情」とは、アリストテレスによれば、「同情と怖れ」に区別され、怖れとは、「苦悩する人とわれわれとの類似性から、われわれ自身を思って生ずる怖れなのである」。しからば同情との関連はどうなのか?

……われわれ自身に差し迫ってきた時、われわれが怖れることはすべて同情に値するというのだ。したがってわれわれが同情を催すような不幸な人が、何かしらある弱点によって不幸を引き寄せたとしても、不幸に値しないというのは十分ではない。その人が無実にさいなまれていようとも、あるいはむしろあまりにも罪に苦しめられていようとも、われわれにもその人の苦悩があてはまるのではないかという可能性が見えない時には、われわれには役に立たないか、われわれの同情を引き起こすことはできないというのだ。こうした可能性が生じてきて、真実性が大きく増すのは、詩人がこの人物を概してそうであるよりもひどく描かない場合であり、われわれがその人物と同じ状況にあったならば考えたり振舞ったりしたであろうように詩人がその人物を完璧にそのように考えさせ振舞わせる時にであり、あるいは少なくともそうに違いないとわれわれが思う場合である。(p.188) ▼

simmel20.hatenablog.comアリストテレス】石野敬太(早稲田大学助手)
⃝1)国制を介した制度的な関係であること、2)互恵的な関係であること(審議と判決の公職に参加する権能を有する者=無条件の市民が順番に公職に就く)、3)配分的正義(各人の功績・価値に応じて名誉・財貨・公職が分け与えられること)に即した関係であること。奴隷、女性、農民や商人などを政治的な領域へ参加させていないという、歴史的限界があること。