歌麿と専光寺

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 喜多川歌麿の墓は、世田谷区北烏山の専光寺にあり、わが実家の菩提寺である。この3月は104歳で亡くなった亡母の3回忌の月であったが、新型コロナ感染症により法要が中止となってしまった。またこの寺の墓地には、『コロンボ刑事』の初代声担当の小池朝雄も眠っている。寺が位置する通りは寺町通りといって、通りの両側には、関東大震災の折多くは浅草から引っ越してきた寺院が並んでいる。亡父の知己で寺の檀家総代を務めていた浅草のAさんの紹介により、この寺を菩提寺としたのであった。

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浅草尾張屋の天丼

    浅草尾張屋は、浅草育ちであるからむろん行っている。ここの天丼は(いまも同じらしいが)海老が丼をはみ出るほど大きくて食べ応えがあった。いつかまた寄ってみたい店である。

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▼一昨年つくしこいし鳴く季節に亡くなった葉山修平は、長篇小説『小説・永井荷風』をある雑誌に連載していた。父の邸宅〈來青閣〉での、遠い日の生活を回想する件が描かれている。

 四十歳という年ごろに、どうしてあれほど草花や小動物に親しんできたのか。たぶん〈來青閣〉がそうさせたのだ。いま彼の陋屋には花ひとつない。まあ、いい。〈來青閣〉は遠い日の夢なのだ。なつかしさに、大正七年の「断腸亭日乗」の草花や小動物を追ってみるのだ。

 断腸花(秋海棠)を愛した断腸亭主人荷風のエッセイ「來青花」で、この來青花について、「園丁これをオガタマの木と呼べどもわれ未だオガタマなるものを知らねば、一日座右にありし萩の家先生が辞典を見しに古今集三木の一古語にして実物不詳とあり。然れば園丁の云ふところ亦遽(にはか)に信ずるに足らず」と書いている。どうやらこれは、モクレン科オガタマ属のトウオガタマ(別名カラタネオガタマ)らしい。五月ころからバナナのような香気を放って咲くというから「異香馥郁たり」の描写にも合致する。『小説・永井荷風』では、年経て荷風は、市川八幡宮の植木市でその名を知ることになる。
 さて長篇小説『小説・永井荷風』は未完のまま、作家は旅立って行った。昨年は、勝手に喪に服し、年初の挨拶を欠礼した次第である。(戊戌元旦)……2018年1/19記「文学作品のなかの花」より

 

了解いたしました、取り急ぎお礼まで

 

 

SPACの『アンティゴネ( ANTIGONE)』は観たいけれども

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 SPAC公演、宮城聡演出の『アンティゴネ』は今春最も観たい演劇なのであるが、静岡の駿府城公園での夜間野外劇場公演となると、交通上日帰りが難しく、しかも東京は緊急事態宣言下にあるので躊躇してしまう。この演出家がかつて主宰していた演劇カンパニー、ク・ナウカ公演の『アンティゴネ』を、2004年10月夜東京上野の国立博物館前庭で観劇している。なおその翌年には、宮城聡演出のク・ナウカの『メデア』が美加理主演で国立博物館講堂で上演され、美加理ファンなのでむろんこれも観ている。

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 SPACの野外劇『アンティゴネ』はもっと大がかりなものらしい。とうぜんながら同じく迷っている演劇愛好家が多いようで、サッカーJリーグに例えれば、天王山の名古屋グランパス川崎フロンターレの試合にも相当する演劇公演なのに、直前でもけっこう前の方の指定席に空席があるので驚きである。
アンティゴネ』は、2003年3月ギリシャ国立劇場来日公演(ニケティ・コンドゥーリ演出)を、東京国際フォーラムホールCで観劇している。その観劇記をかつてのHPから再掲したい。

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▼3月14日(金)、ソフォクレス作『アンティゴネ』を観劇。ギリシャ国立劇場の訪日公演である。演出は前回公演の『メディア』と同じ、ニケティ・コンドゥーリ。音楽が、タキス・ファラジス。アンティゴネリディア・コニオルドゥ、クレオンをソフォクリス・ペッパスが演じている。主役はこの二人と見てよいだろう。西洋古典学者の川島重成氏も、「この悲劇のドラマとしての展開の動因となっているものは、クレオンとアンティゴネという二人の主役の激突である」としている。(『ギリシャ悲劇の人間理解』新地書房所収「『アンティゴネ』における死と愛」)

 オイディプスの二人の息子たちが相争い、双方ともに戦死してしまう。弟エテオクレスは国を護って倒れたのでそれにふさわしく埋葬し、兄ポリュネイケスは祖国に刃を向けて戦死したのであるから、亡骸を放置し、禽獣の餌食とすべしというのが、支配者クレオンの決定であり、命令であった。この命令に逆らって二人の妹のアンティゴネは、見張りの立つ場所に忍び込み、放置された兄の遺骸に土をかけた。埋葬を象徴する行為である。命令違反は死罪、これがクレオンの最初の掟であった。プロロゴスで、妹イスメネ(演じているマリア・カツィアダキは、こちらの好きな劇、ロルカの『ドニャ・ロシータ』のヒロインを演じているそうだ)に決意を語っていた。反逆を駆動させたものは、アンティゴネの「愛」であろうが、イスメネのこの世的な「家族愛」を越えたものが、アンティゴネの「シュン・ピレイン(愛する)」であると、川島氏は捉えている。
クレオンの「ピロス」はその名詞形で、「身内」「友人」の意で、これが、政治的、軍事的なコンテキストでは「味方」の意味になる。
 この「ピロス」の多義性が詩人によってアンティゴネクレオンのやりとりのなかで見事に駆使されている。すなわち、身内への愛を拒否してまで、敵—味方の区別に固執するクレオンの政治的信条に対して、アンティゴネは「シュン・ピレイン」によって、家族の絆の冒し難きを表白したと理解されるのである。『アンティゴネ』における「ピロス」の用例に多少とも注意を向けるならば、これは容易に納得できる見解であろう。われわれもこの解釈に従うのにやぶさかではない。この語(「シュン・ピレイン」)のこの箇所における意味は、確かに家族愛であろう。』
 だから表層的には、祖国愛と家族愛との対立、あるいは国家法と家族法との対立、さらに実定法と自然法との対立という、ヘーゲル以来お馴染みの図式があてはまることはあてはまるのだ。パンフレットでは、久保正彰東大名誉教授が次のように解説している。
「個人と個人とをつないでいる家族の深い絆が断ち切られるとき、その傷は、家全体の死滅にもつながる。—『アンティゴネ』終幕のメッセージは、いわゆる“家族”という小生命単位に限られるものではなく、大小さまざまの家族の集合体にもあてはまる。地域社会でも、都市社会でも、極端なときには、国家間の社会においてもあてはまる一つの真実である。」

 感動的ではあるが、現代のヒューマニズムに引き寄せた解説であろう。
『ポリュネイケスの屍は彼女にとって死そのものの象徴であった、と言えるのである。かくして、アンティゴネの愛は、自己の外なる生の領域に対象を持ついわゆるヒューマニズムの愛のカテゴリーにはとうてい納まらない愛であり、それゆえ、「死の愛」とでも表象するしかないものなのである。これは自殺願望ということではない。確かに彼女の言動は、他者の眼には、「わざわざ死を求める愚か」つまり自殺願望と映るしかないであろう。しかし「死の愛」はそのような人間性の弱さの証ではなく、死という否定の契機を自らに引き受け包摂することによって、かえってそれを人間肯定の機縁へと転換せしめるもの、人間性の真の自由の謂なのである。』(川島重成氏前掲論文)
 コロスの歌う第1スタシオン(合唱歌)は、「驚くべきものは数多あれど、人に勝る驚きはなし」。この「驚くべき」と訳される語は、「恐ろしき」とも「不思議なる」とも、あるいは「巧みなる」とも、さらには「素晴らしき」とも訳しうるそうだ。この多義性こそ、人間存在そのものであることは、現代文明のあり方を考えれば首肯できよう。クレオンのヒュブリス(傲慢)は、アメリカの傲慢であるかもしれないし、現代文明の驕りかもしれない。
 生命あるものの死も正義も必ず実現する「運命」への愛こそが、多分アンティゴネの「死の愛」なのではないだろうか。それを知りうる人間が、盲たる予言者テイレシアス(演じるコズマス・フォンドゥーキスが、XJapanのYOSHIKIを思わせる格好で登場したので驚いた)であるというのは象徴的であろう。われわれはあらゆるものを見させられて、実は、「見えないもの」がいよいよ見えなくなってしまっているのではないか。(ソフォクリス・ペッパス=クレオンとリディア・コニオルドゥ=アンティゴネの写真は、日本文化財団編集・発行の「訪日公演記念プログラム」より)
 なお、会場の「東京国際フォーラムCホール」は、席と席との間隔がゆったりしていてとてもよい条件で観劇できる。こちらの坐った席は、8列の34であった。最高の位置といってもよい。(2003年3/16記)

 周知のように、ギリシア悲劇アンティゴネ』は哲学史的にも大いに論議の対象となってきた作品である。あらためて考察したいところだが。

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「カンツォーネの女王」ミルバ(MILVA)追悼

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カンツォーネの女王」が「シャンソンの女王」に捧げたリサイタル『ミルバ・ドラマティック・リサイタル’94』を、1994年5/28 千葉市千葉県文化会館ホールにて聴いている。とてもよいリサイタルで、連れ合いも大満足していた。ご冥福を祈りたい。

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乃木坂46与田祐希さん影響で熊本馬刺し注文

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 昨日熊本の生産者直送で、馬刺しが届いた。おろしニンニクがないので、冷凍庫に保存。楽しみ。馬肉といえば、浅草吉原の中江が有名であるが、一度も行ったことがない。昔吉原大門近くで、小説を書いていた福島進(故人)という人がホンゴーという小さな中華料理店を経営していて、そこの料理は美味しかった。中江には、一昨年NHK朝ドラ『なつぞら 』の広瀬すずさんほか行ったとのこと、後になってFacebookで店の主が得意げに書いていた。

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三好十郎作、上村聡史演出『斬られの仙太』(新国立劇場)観劇

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    一昨日4/20(火)は、京王線初台下車、新国立劇場小劇場にて、三好十郎作、上村聡史演出の『斬られの仙太』を観劇。午後1時開演午後5時20分終演(2回休憩)の長丁場であった。昼食は、わが定番の劇場向かい側の珈琲館でランチを摂った。公演プログラム略年譜によれば、三好十郎32歳の時、1934年発表の作品で、同年(左翼劇場改め)中央劇場にて初演されているとのこと。当時の舞台については想像がつかないが、上村聡史の演出は、まさに「なにもない空間」(P.ブルック)で幕末の百姓、草莽の志士、役人、博徒などを自在に暴れさせ、音響効果もあって退屈せずに観終わらさせる舞台を創造した。幕末における村落の動向は、NHK大河ドラマ『青天を衝け』でも描いていて、狂気に近い情熱の沸騰ぶりにはここでも呆れるばかりである。
 公演プログラムで、日本近世史・村落史専門の渡辺尚志一橋大学名誉教授は、「幕末の百姓世界—天狗党の背景」と題して解説している。

 

 幕末には、政治情報が村々にも伝わったため、日本の政治体制は今のままでよいのか、諸外国にいかに対峙すべきかといった問題を、自分自身のこととして真剣に考える百姓たちが増えてきた。考えを同じくする武士と行動を共にする百姓も現れた。その代表的な事例が、水戸藩である。水戸藩は御三家の一つとして幕府を支える立場である一方、尊王攘夷思想が藩士の間に広く受け入れられていた。そのため、藩士内部に、幕府と朝廷との間でいかなる立場を採るか、尊王攘夷をどう実行するかをめぐって、相対立する複数の党派が生まれ、政争が激化した。そして、急進的に尊王攘夷を目指す一派が天狗党であった。(p.25)

    決して幕府権力対尊王攘夷派反権力という図式で展開するのではなく、反権力側にももう一つの権力志向があり、それが草莽の志士・百姓らを操ろうとしていたり、幕府権力側がその動きに乗じてやっかいな反権力勢力の一掃を企むなど、権力をめぐる複雑な深層構造を炙り出していくのである。その中で主人公の仙太が苦悩し、決断し、仲間の裏切りの刃に倒れる。しかし暗転、20年の歳月が流れ、仙太は「斬られの仙太」という伝説の呼び名で一人の老百姓として生き続けていたのであった。自由民権運動の闘士たちが党派的なシンボルとして利用しようとして村にやって来る。繰り返しである。外から地域住民に「寄り添う」と称して今日でも、いろいろな活動党派があらゆる被害地域に足を運ぼうとする。(少なからぬ勢力は)権力志向の反権力活動に利用しようとするのであろう。
 仙太役を演じた伊達暁(さとる)以外は、どの役者も複数役をかけ持ちで、目まぐるしいところもあったが、慣れてくれば違和感はない。藝者お蔦役の陽月華(ひづき・はな)はさすがに元宝塚宙組娘役トップの女優で、それこそ華があり、巧い。2012年10/15帝国劇場で、ユーミン貫地谷しほりとの共演の音楽劇『8月31日〜夏休み最後の日〜』を観ているが、終演後のカーテンコールで、ユーミンを真ん中にして貫地谷しほり陽月華が交互に、ユーミンの「卒業写真」を歌ったことが思い出された。

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 上村聡史演出の舞台は、カミュ作品、サルトル作品など知的刺激を与えてくれる。今回3度目である。またいつか観たい演出家の一人。

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