NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で能『羽衣』

 

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   天野文雄氏の『能楽手帖』(角川ソフィア文庫)によれば、『羽衣』の天人(シテ)は、羽衣を返してくれた漁夫白龍(ワキ)に応えて、三保の松原から眺められる三保が関、富士、清見潟をはじめとする景観を天上さながらの美しさだと称え、当代は善政が津々浦々に行きわたり、御代も永遠だとして「霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の舞」を舞う。美景賛美が、治世への賛美となっているとのことである。11/22(日)のNHK大河ドラマ麒麟がくる』は、正親町天皇(おおぎまちてんのう:坂東玉三郎)の詔にて、織田軍と朝倉・浅井軍とのしばしの和平が成立、将軍足利義昭の前で能の『羽衣』が上演されるという展開であった。シテの天人を舞ったのは、坂 真太郎師(観世流)。このドラマ4回目の登場である。シテの天人は、立物(✼飾り物)を付けた天冠の天女の出立である。美しい。

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『羽衣』の生の舞台は、1975年3/13文京区・水道橋能楽堂(現宝生能楽堂)にて、シテ:松本恵雄(しげお・宝生流)、ワキ:森茂好(しげよし)、ワキツレ:野口敦弘・森常好、笛:藤田大五郎、小鼓:住駒明弘、大鼓:柿原崇志・柿本豊次で、観劇している。

 

ロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)没後150年

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『マルドロールの歌』のロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)は、1870年11月24日に、新型コロナ禍と同じような疫病流行下のパリで24歳で亡くなっているから、本日は没後150年の命日にあたる。昔栗田勇訳の『マルドロールの歌』(現代思潮社)を一気に読破したことを思い出す。いまで言えば、長いラップの曲を一晩酔い痴れて聴き続けたような体験であったろうか。その後いろいろな翻訳が出ているようであるが、一つも読んでいない。個人的にはロートレアモン栗田勇なのである。
 デペイズマン(アンドレ・ブルトン『百頭女』前口上)の代表的表現として有名な詩句は、「第六の歌」の一節。大昔の記憶を手繰り寄せつつ、書き写す。

……さて、このわが筆(ぼくの相棒である真の友)が神秘的にしてしまったこの場所から、コルベール街とヴィヴィエンヌ街が合する方角を眺めるなら、この二つの路の交差によって生ずる角に、一人の人物がシルエットを浮かびあがらせ、軽やかな足どりでプールヴァールの方に向かうのがみえよう。だが、この通行者の注意を惹かないようにもっと近づくと、一種の心地よい驚きの念とともに気づくはずだ、彼は若いと! 遠くから見れば、誰だってきっと成年にたっしていると思ったかも知れない。真面目な容貌の知的な能力を評価することが問題なら、もはや日月の総量などは問題にならない。ぼくは額の人相学的線の中に年齢をよみとることには精しいのだが、彼は17歳と4ヵ月だ! 彼は肉食猛獣の爪の牽縮(✼けんしゅく:爪を引っ込めること)性のように美しい、あるいはさらに、後頭部の柔らかな部分の傷口の定かならぬ筋肉運動のように、あるいはむしろ、あの永久の鼠取り機、動物が捕えられる度毎にいつでも仕掛け直され、一台で無数の齧歯類(✼げっしるい)の動物を捕えることができる、藁の下にかくされていても機能を発揮することのできるあの機械のように、そしてなによりも、ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい! メルヴァン、このブロンドのイギリス女の息子は、剣術の授業を先生のところで受けてきたところだ。そして、スコッチのチェックの服に身をつつみ両親のもとへ戻るところだ。(pp.291〜292)

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……超現実とはその上、一切のものの完璧なデペイズマンに対する、私たちの意欲に応じて得られるものだろう(そして言うまでもないことだが、人はついに一つの手を、腕から切りはなして転移=デペイゼすることだってできるし、しかもその手はその結果ちゃんと手としての利を得るわけだ。それにまた、私たちはデペイズマンについて語る場合、ただ空間内での移動の可能性ばかりを考えているわけではないのである)。(巌谷國士訳『百頭女』河出書房新社

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女優二階堂ふみ

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simmel20.hatenablog.com 蜷川実花監督作品なのであまり期待はしていないが、二階堂ふみ出演の『人間失格太宰治と3人の女たち〜』のDVDは所蔵している。NHK朝ドラ『エール』が終了し、二階堂ふみ演じる音さんのイメージを消してから観るつもりである。

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今年のボージョレ・ヌーヴォー

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 11/21(土)月命日の掃苔をすませ、帰路PARCOのワインショップで、ソムリエ風の男性店員お勧めのドメーヌ・デュ・シャン・ド・ヴィオレ生産になるボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォーを購入した。価格税込2423円、今年は演劇もオペラも落語会も行けなかったので、例年に比べると多少の贅沢にはなるが、許容範囲か。

 

マルゲリータ王妃の誕生日

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 11/20は、統一イタリア最初の王妃マルゲリータ1878年夫ウンベルト1世が王位に就く)の生誕の日であり、1889年ウンベルト1世とともにナポリを訪問した折、王妃が考案したのがピッツァマルゲリータ。そこで本日は、それを記念して日本で「ピザの日」と凸版印刷によって定められたとのこと。

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 今朝は、ローソンで買ってあった冷凍ピッツァマルゲリータを冷凍庫から取り出し、電子レンジで600W6分で温め、食べたところ、クリスピータイプのピッツァマルゲリータであった。高齢者には生地が固く、食べにくかった。具材は美味しいので残念であった。ファミリーマートマルゲリータイトーヨーカドーの金のマルゲリータがやはりいい。

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「しわしわネーム」で思い起こす

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 この「しわしわネーム」で思い起こしたことは、金原克範氏の『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社:1995年初版)。かつてブログで、吉高由里子主演のNHK朝ドラ『花子とアン』に触れて、この本を紹介したことがあるが、またこの本の分析を思い出した。

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▼子のつく名前をめぐる女性名の変遷といえば、金原克範氏の『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社:1995年初版)を思い起こす。題名の「頭がいい」に釣られるとトンデモ系の書と誤解を招くが、女性名の変遷と情報環境の変化との関連を数理社会学的に分析した論考で、現代社会論としては必読といえようか。
 同年齢の女性集団のなかの“子”のつく名前の人数比率を「保守的に命名された個体の比率=Conservatively Named rate(CNrate)」と呼び、問題ごとにその比率を調べて“子”のつかない群との特性の違いを考察している。面白い。表題の「頭がいい」問題に関しては、東北地方某県某市の私立高校合格者名で判定している。入試水準の高い高校ほど、合格者名にCNrateが高く、低い高校ほどCNrateが低いという、統計的に極めて有意な調査結果が出ているのである。むろん著者は、入試水準の高い高校合格者すなわち絶対的に「優秀」と即断しているわけではなく、違いが観察される社会現象が事実としてあることを指摘しているのである。
 むしろ、若い女性たちの情報受容をめぐる特性についての比較分析のほうが興味深い。高校入試以外に、いろいろな場での同年齢集団のなかでのCNrateを調査した結果が紹介されている。“子”のつく名前の女子で情報受容性が高かったのは、高校入試で必要な学習情報のほかに、ファッション、身体制御の項目であった。“子”のつかない女性においては、告白誌の告白(情報)、アニメーションの項目で高かった。この結果について金原氏は、分析している。
……高校入試に必要となる学習情報や、ファッション情報・身体制御情報は、受信者にとって将来活用できる情報である。入力の時点に価値をもつのではなく、出力の時点に価値をもっている。これらの情報は、その価値を未来に置いている、未来指向型の情報である。
 ところがフィクションや告白情報は違う。これらの情報は未来への価値をともなっていない。フィクションの主人公のように僕たちは行動できないし、告白された生活を自分で選び取る人もいないからだ。これらの情報は、将来的な活用よりも、コミュニケーションの場自体で活用される性質をもつ。出力に価値をもつのではなく、入力に価値をもつ情報である。これらの情報は、価値を現在に置いている、現在指向型の情報である。
 すると、現代型の女性とは、入力重視の情報的価値観をもつ、現在指向型の女性として捉えることができる。従来型の女性は、情報の価値を、未来に活用できる部分に置いている。しかし、現代型の女性は、コミュニケーションが行なわれる時点にだけ情報の価値を求めている。
 このような変化は、もちろん、本人に完全に自覚されているわけではない。人間は自分自身についての客観的な評価はできないのだ。そして、「シンデレラ」である現代型の女性たちは、自分のもつ価値観が自覚できないからこそ、周囲とのコミュニケーションギャップに悩み、解決の方策が見いだせないでいる。彼女たちを包んでいる見えないベールは、じつは彼女たち自身の内部にあったのだ。……(同書pp.108~109)
 女性名の変化は、1954年〜1964年の10年間で最大に起こっている。その主要因は、TVや雑誌などのマスメディアの普及に求められ、“子”のつかない女性名は、現代においては両親がメディアに依存する傾向にあったことを示していると、著者は分析している。

 

二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)老衰死

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 四代目坂田藤十郎襲名後の生の舞台を観たことがなく、個人的には最後まで二代目中村扇雀であった。父君の二代目中村鴈治郎の舞台は、むろん何回か観ている。

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  1981年中村扇雀丈結成の近松座の公演では、『曽根崎心中』は観ておらず、高瀬精一郎台本・演出の『心中天の網島』(1986年3月)ほかを、こどもの城・青山劇場にて観ている。

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 当公演パンフレットに、木下順二氏が「近松扇雀」と題して寄稿している。
近松を演じるのに最もふさわしい役者、扇雀、といつの間にか私も自然に思いこんでいたが、古い脚色による近松の何篇かを“家の芸”として代々演じ込んで来たことからそう思い込まされていたとすればそこが危いところで、“家の芸”は大切だとしても、近松座を作った扇雀さんの立つところは、それとは別だろう。
◯高度な技術、ということを何度かいったが、それは例えば、かつて武智鉄二さんが的確に語ったあのこと——近松の頃の人形は一人遣いだから、その間は写実であった。歌舞伎の近松が一般に成功しないのは、今日の文楽の三人遣いの間から派生した技術を用いるからで、その点『曽根崎』のお初においては、「この一人遣いと三人遣いとの中間の間を、……扇雀は巧妙に駆使したのである。」
 つまり、そういうものの複雑微妙な集積を、私は高度な技術というのである。
 そこで繰り返すが、そういう高度な技術と原作に対する深い理解力=役者としての強い創造力、それを縦横に働かせつつ、一つ一つ近松を積み重ねて行く、それが近松座の仕事なのであって、考えれば考えるほど、これは大変な事業なのである。

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