コーヒーにはクリープがいい

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 Amazon経由で注文した森永クリープが、昨日玄関置き配で届いた。ありがたい。コーヒー用ミルクについては、とうぜん人によって好みがあろうが、こちらは森永のクリープがいちばん。牛乳のオイリー感(残存する乳脂肪分の味)がコーヒー本来の味を損ねると感じる人は敬遠するかもしれない。スティックタイプ(100本入り)なので、分量の目算ミスもなく、保存にも適していて気に入っている。

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さくらんぼ紅秀峰は、はじめて

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 昨日の買い物で、さくらんぼの紅秀峰をはじめて購入。同じ山形のブランド佐藤錦より遅めの収穫・出荷で、「『佐藤錦』に比べて大粒で、果肉が硬く歯応えがあり、酸味が少なく糖度が高い事が特徴」とのこと。ただし、佐藤錦と天香錦との交配で生まれた新品種、系統的にはつながっているわけだ。酸味が少ない点は好みが分かれるところ。それぞれよい味かと。

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特撮映画の珍品DVD『大怪獣映画G』(田口清隆監督)届く

 「特撮の日」の昨日7/7ではなく、本日楽天経由で購入した特撮映画の珍品DVD『大怪獣映画G』(田口清隆監督)届いた。面白そう。今夜大井競馬場で、中央・地方3歳馬のダートの祭典レース「ジャパンダートダービー」2000Mがあるので朝から落ち着かない。あとで観ることにしたい。

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「河童忌記念帖2020in田端〜現代作家が芥川龍之介を詠む〜」

 

村上隆、ビジネスが破産(bankruptcy)に直面

hypebeast.com

    時代の寵児といえるだろう現代アーティスト村上隆氏の主宰する会社が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大による影響で、破産の危機に直面しているとのこと、驚いた。村上隆氏の著作に関して、かつてブログで取り上げている。

simmel20.hatenablog.com

ようやく放送開始、NHK『ディア・ペイシェント〜絆のカルテ〜』

 

www.nhk.or.jp

マルクス疎外論の再評価(その3)

 

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 D.ヒュームの『宗教の自然史』(叢書・ウニベルシタス 法政大学出版会)と『自然宗教をめぐる対話』(岩波文庫)の2冊ほかと併読しているので、田上孝一氏の『マルクス哲学入門』(社会思想社)もようやく完読。その間Twitterで、直接著者への判読し難い箇所の確認などできて、現代の読書環境の恩恵に浴している。
 疎外論こそマルクス哲学の核心で、『資本論』においてもそれは基底にあり、決して超克された考え方ではないというのが、本書の画期的な論旨であり、文献に基づく最新のマルクス研究の成果である。
 資本主義の下での人間=人格(Person)はSache化する(Versachlichung)のであり、これに「物象化」という訳語をあててきたのは適切ではないこと、資本主義を止揚した後に成立する未来のあるべき社会主義社会とは、ゲノッセンシャフトリヒ(genossenscaftlich)な社会であるということ、盟友エンゲルスのいわゆる科学的社会主義とは疑似科学であり、それがレーニンスターリンに継承され定着したマルクスレーニン主義マルクス本来の思想から逸脱していること、マルクスの思想は人間と自然とのあるべき循環を構想したのであって、生産力至上主義ではないのであり、したがって現代の環境問題についても十分射程距離が届いていること、以上4点がさらに追加されて哲学のほぼ全貌が明らかとなるのである。

◯従ってVersachlichungは物象化ではない。Sacheの反対概念は「人格」だからであるTwitterにて田上氏にわかりやすくしていただいた)。それは商品として値段が付けて売り買いされるような事物であり、物件である。だからVersachlichungは正しくは物件化と訳されるべきものである。人格的な人間が物件となり、商品化されてその労働力が売買される。そのような商品化を批判する概念がVersahlichungなのである。その前提が人間とは人格であり、物のように扱われてはならないというマルクスの人間観なのである。(p.86)  

◯…マルクスが敢えてゲノッセンシャフトという言葉を使ったのは、新社会のアソシエーション的性格を一層強調するためだったと考えられる。というのはGenossenscaftの語幹であるGenosseには「同志」や「仲間」という意味があり、更には動詞のgenießenには「楽しむ」や「享受する」という意味があるからである。一緒に楽しめるような人間関係が仲間である。新社会がGenossenscaftであるということは、それが際立って友愛的なアソシエーションであるということである。だからこのGenossenscaftを一律に協同組合と訳している現行の翻訳は、不十分なのである。(p.92)
◯そしてこの老エンゲルスによる図式化、道徳的批判と科学的分析を対立させ、必然的な歴史法則の強調により対象の規範的吟味の必要を認めないという極端に実証主義的な立場としてマルクス学説を特徴付けるのは、マルクスの名を冠しながらマルクスその人には由来しない一種の知的創作と言えるだろう。こうしたエンゲルスによるマルクス学説の神話化が、後にマルクス主義といわれるようになる一大思潮の出発点となるのである。(p.102)
◯ここには人間の生は、人為の及ばぬ大自然の循環の只中にあることを前提するという、エコロジカルな視座がある。また労働とは、あくまで大自然の循環に則って、これを撹乱させない範囲で行なわれるべきだという、エコロジー的に適切な規範が含意されている。これだけでも、マルクスの環境観の現代的アクチュアリティが伺える。人間はあくまで大自然の過程の只中にある存在である。人間は決して自分を自然世界の中心だと驕り高ぶるべきではない。ここまで明示的な文言はマルクス自身にはないものの、理論の方向性自体はこうした謙虚な目線での人間の対自然環境観を含意しているのではないか。(p.119) 

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