「あまさ柔かさ杏の日のぬくみ 犀星」 少し遅めですが、記念館の庭の杏も色づきはじめました。来館者の目を楽しませてくれています。 pic.twitter.com/thIFBKyi6X
— 室生犀星記念館 (@saisei_museum) June 14, 2019
「あまさ柔かさ杏の日のぬくみ 犀星」 少し遅めですが、記念館の庭の杏も色づきはじめました。来館者の目を楽しませてくれています。 pic.twitter.com/thIFBKyi6X
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批評同人誌『G-W-G』3号の巻末座談会『浅利慶太と「天皇╱制」』は、ジャン・ジロドゥはじめフランス劇文学研究(宮城学院女子大学准教授)の間瀬幸江氏が参加していて、ジャン・ジロドゥをめぐって、寺山修司と浅利慶太の人生と仕事を捉えることが可能でありたいせつであると教えられた。むろん特集に即した企画であるから、左翼政治思想とJ.P.サルトルのロマン主義演劇から出発している浅利慶太にとっての「空虚」と「イロニーの有無」などが関連して、「天皇╱制」と資本の論理にどう絡めとられていったのかについての考察が議論の柱とはなっている。
〈美声〉による朗々とした「四季節」と呼ばれた台詞回しの演劇は、「空虚」ではあっても、フォルムを伝承することによって演劇史上の遺産をたしかに残し得ているとの対談の展開を引き取って、アングラ演劇はどうかと、間瀬氏は疑問を提示している。なるほど。浅利慶太はジャン・ジロドゥの演劇をいわば〈凍結〉させたことによって、今後それを〈解凍〉すれば、新たに舞台化を展開できるのではないかと。
間瀬:いま聞いていて、アングラの人たちと浅利の通った過程の違いについても考えました。今の時代をふり返ってみると、鈴木忠志や唐十郎という名前は、一般には知られていないけれど、浅利慶太の名前は演劇を見ない人々さえ知っている。20世紀後半にはあったような気がする「よい作品」の物差しを、もう今の観客は持っていないじゃないですか。だから、作品についてどちらがより良いかとはなかなか言えないわけだけど、でも、日本で強い影響力を持ち、人々の記憶に残り人々の思考回路の一部と関わってしまっている作品のつくり方をした流れはどちらなんだろうと思うと、それはやはり浅利なのかもしれないということはちょっと思います。鈴木忠志や唐十郎、佐藤信といったラインはアカデミズムの人たちが全面的に肯定していますが、浅利慶太に関しては総スカン。いやむしろ、総スカンすらしない、話さないことになっていますよね。だけどこのアングラの人たちの流れはこれからどうなっていくのかな、と思うんです。……( p.196 )
今日6月13日は「イェイツ・デー」。アイルランド出身の詩人・劇作家でノーベル賞受賞者でもあるW.B.イェイツ(1865-1939)の生まれた日です。彼のゆかりの地であるスライゴー県をはじめ各地で記念イベントが開催されます。 #YeatsDaySligo pic.twitter.com/5B1CnG6EUG
— アイルランド大使館 Ireland in Japan (@IrishEmbJapan) June 13, 2019
(わが蔵書)
『週刊読書人』6/7号の対談「没後20年江藤淳」を読んだ。『江藤淳は甦える』(新潮社)を上梓した平山周吉氏と、先崎彰容(あきなか)日本大学教授(日本思想史)との、文藝評論家江藤淳をめぐる対談である。没後もう20年になるのかと驚いた。自殺した日のそれほど前ではないある日、都営三田線の席に江藤淳さんを目撃している。
三島由紀夫との思想的関連についての、二人のやりとりのところが興味を惹いた。
平山:三島由紀夫の死は昭和45(1970)年でした。江藤さんはその時、三島の死を批判したわけです。その翌年には小林秀雄と江藤さんの対談があって、火花を散らす論争になりかけた。三島が戦後25年の日本を相当厳しく批判して死んでいって、実は江藤さんの死は三島の死の延長線上にあったのかなということを読めば読むほど思うようになってくるんです。
先崎:今三島の話が出ましたが、もうひとり大事な存在として、伊東静雄がいると思います。初期のころ、「中央公論」に書いた「石原慎太郎論」の冒頭は伊東静雄の詩の引用から始まりますし、「がくりと折れたというような感じがある」という印象的な言葉をもつ「伊東静雄論」もあって、江藤さんは日本浪曼派の詩人である伊東のことがとてもお好きでした。江藤淳はよく『小林秀雄」を書いた前後、アメリカ留学中に転向したと言われますが、僕はそれには反対です。江藤は最初期の「神話の克服」の時点で、保田與重郎らのロマン主義を批判していますが、これはアメリカ留学中の講演録「近代日本文学の底流」や「日本文学と『私』」などでも展開されているからです。最晩年の作品『南洲残影』では、突如、蓮田善明の話まで出てくる。つまり江藤にとって、三島も所属した日本浪曼派的な気分は、生涯の大きなテーマであったと思います。……
2014年8/4のわがブログで、かつて江藤淳に関して書いたHPの記事を載せている。
▼同人誌の傾向として同人誌的小説というものが多いらしいが、詳らかにしない.昔文藝評論家の江藤淳が「朝日新聞」の文藝時評で、同人誌の作品を採りあげたことがあった.わがHPの記述を再録しておこう.
「たまたま私は同人雑誌『花』の正月号に発表された葉山修平氏の「黒い虹」という中篇小説を読んで、ここにも「天皇陛下」が投影しているのにおどろいた。これは戦争中の田舎中学生の日記の体裁に終始している風変りな小説で、「靖国の鬼」という「死」の象徴のなかにのみエロスを感じている萠芽的な段階のエロティシズムを描いた作品である。もしこの問題を逆の角度から見直せば、暗示されているものの意味は大きいであろう。それは、おそらく有機的に統一された過去への渇望である。現実の「過去」がそんなものではなかったことは誰もが知っている。しかし人は望むように夢見るのであり、これらの作家は人々の胸に眠る願望を、各々のかたちで鋭敏に捕らえはじめているのかも知れない。」(江藤淳『文芸時評』新潮社)
これは「朝日新聞」の1960年12月の「文芸時評」の最後の箇所である。江藤淳が、1)エロスの衝動が美化された過去=国家にむかう可能性に注意を促していたこと、2)大江健三郎の「セヴンティーン」と、三島由紀夫の「憂国」と並んで、(当時)全く無名の葉山修平氏の、それも一同人雑誌に発表された作品を、対等に取り扱っていること、この二点を、今後江藤淳という文学者を語るとき忘れないようにしたいものである。(2001年8/9記)
今週号「読書人」で先崎某が平山某の江藤淳本を小熊某の1968本に匹敵する名著と言っているが、こういうバカ話を何の証明もなく公然と言い、また活字で公開する神経というのが分からない。私が1968本を書いているから言うのではない。先崎も「読書人」編集部もバカである。恥を知れ!
— 猫飛ニャン助 (@suga94491396) June 9, 2019
NHK朝ドラ『なつぞら』に、先週ついに待望の貫地谷しほり登場。『ちりとてちん』以来の朝ドラ出演。落語家修行のヒロインB子から、今度は、アニメーター志望のヒロイン・奥原なつの修行を、先輩として励まし導く(らしい)実力派のアニメーター(セカンド)・大沢麻子を演じている。実在のモデルが、奥原なつが奥山玲子、大沢麻子がが中村和子とのこと。
なお、伊原六花が演じている、彩色担当の森田桃代の実在のモデルは保田道世で、後に日本アニメの最高傑作(個人的評価)『風の谷のナウシカ』の色指定を担当したとのこと、驚きである。このアニメ作品は、青を基調として、色彩の図像学が成立するほど、色彩が重要な意味をもっているから。ワコさん=中村和子は、「『西遊記』の制作スタッフとして関わった手塚治虫に気に入られ、1962年頃に株式会社虫プロダクションに移籍。『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』などの作画を担当し、技術面で虫プロの黎明期を支えた」と。貫地谷しほりに相応しい役である。広瀬すずも「狙い撃ち!」のCMの声そのまま、声の底に艶があり魅力的。先輩女優らから何かを盗みとって、さらに大きな女優になってほしいものである。
#貫地谷しほり が演じる大沢麻子は #中村和子 さんがモデルになっていると思われます。麻子(あさこ)は「マコ」と呼ばれるようですが、中村さんには「ワコ」という愛称がありました。1956年に東映動画第一期生として大塚康生さんらとともに入社。美人アニメーターとして知られていました。#なつぞら pic.twitter.com/kJOIyHGGq5
— キャッスル (@castle_gtm) June 3, 2019
#なつぞら に登場の柳家喬太郎師匠。喬太郎師匠の台詞は「抜け雀」に関するものですが、奇しくも明後日月曜日の古典ゼミの課題です。副課題の「竹の水仙」は喬太郎師匠の口演がマイベスト。
— Koji Matsui 松井孝治 (@matsuikoji) June 8, 2019
それにしても山口智子と貫地谷 しほりのこの存在感。 pic.twitter.com/dNkkGTCHKt
昨日3/19(月)は、東京世田谷パブリックシアターにて、野村萬斎演出の三島由紀夫作『サド侯爵夫人』の舞台を鑑賞した。3Fの最前列という席での観劇で、高所苦手のこちらとしては芳しくない条件。1FのS席で上を見上げている中年男性を見つけ、「観劇格差」を思ってあまり高揚した気分にはなれなかった(?)。
1990年1月東京グローブ座で上演された、スウェーデン王立劇場のイングマール・ベルイマン演出の同舞台ほか、この三島由紀夫作品の舞台化は、少なからず観ているので、記憶が錯綜していて一つに収斂しない。
今回の舞台の特色は、モントルイユ夫人(サド侯爵夫人ルネの母)を演じる白石加代子が、「本を読んだ段階で俗物で利己的なイヤな女と思ったけれど、加えて萬斎さんは怖さやグロテスクさも出させたいようなんです」と述べている通りの存在感を示す、そのことにあろう。鈴木忠司演出『トロイアの女』や蜷川幸雄演出『身毒丸』で示された圧倒的な存在感と地の底からのような声が、この舞台では違和感を感じさせる。魔性の女性サン・フォン伯爵夫人を演じた麻実れい以外は、この演技にとても拮抗しえない。古今調の長台詞を言うのに精一杯のルネ役蒼井優ほか、シミアーヌ男爵夫人役神野三鈴、アンヌ(ルネの妹)役美波ら、情念の渦を生む気品あることばのアンサンブルを作れていない。
民衆の暴動が過激化して、ブルボン王朝の崩壊を予想させる第3幕の場面では、それまで家政婦シャルロットが引き上げていたシャンデリアが床に降ろされたままとなり、シャルロット(町田マリー)がエプロンを外してしまう。さすが萬斎演出、シンプルな仕掛けで時代の激変を暗示しようと試みている。牢獄から解放されて訪ねて来たサド侯爵に対して、修道院に入ることを決めたルネがシャルロットに言う最後の台詞「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。『サド侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい』と」のところが音響的にも強調された演出になっていた。生身のみすぼらしいサドではなく、観念のなかのサドを発見しそれにのみ意味を認めたルネにとって、これは当然の態度であったが、さりげなく終わらせてよかったのではないか。
当日は、D'BURNのジャケットの下にJUNKO KOSHINOのワイシャツという服装で出かけたのだが、新妻聖子がルネを演じた、東京国立博物館講堂を会場にした同演劇(2005年11月)では、ロココ様式のフランス貴族の衣装デザインを担当したのは、コシノ ジュンコさんだった。
東京大井競馬場11R「東京ダービー」は、一番人気ミューチャリーの単勝オッズ1.3、2番人気のウィンターフェルのそれが4.4、3番人気のヒカリオーソのそれが12.4で、ミューチャリーの人気が圧倒的で、ウィンターフェルも一桁人気。3連単馬券は、ミューチャリーの1着固定が大半で、1着ミューチャリー、2着ウィンターヒルの流し馬券がその次に売れたであったろう。結果として3番人気馬・1番人気馬・2番人気馬の順位で決着していても、的中7,590 円もの高配当。この馬券を200円押えていたので、万馬券的中並みの成果となった。中央のいずれも大荒れとなったオークス・ダービー・安田記念と春のGⅠを外していて、取り戻すありがたい結果。もっとも、さっそく秋の東京二期会オペラ劇場『蝶々夫人』のチケット代15000円に使ってしまった。
(裏庭の紫陽花)
昨日6/5(水)は、東京文化会館大ホールにて、東京二期会オペラ劇場『サロメ』を観劇した。夕飯を上野駅アトレ(atre)EAST2Fにある「つばめグリル」で摂った。いかにも昭和の洋食屋さんという店内イメージの、このチェーンの店が気に入っている。価格も手頃で利用しやすい。ここのロールキャベツがお気に入りである。むろん昨夕もロールキャベツで、味噌汁と前菜の野菜サラダそしてコーヒーを注文。テーブルの上に置いたチケットを店員さんが一瞥し、「お客さん、文化会館へ行かれるんですか?」「そうです」「それなら、ウチはコーヒーはサービスなんですよ」「つまり無料?」「そういうことです」。嬉しい。文化会館利用の場合は、「つばめグリル」利用がお薦めだ。
セバスティアン・ヴァイグレ指揮の読売日響の、惨劇を予兆するような重い音とともに幕が開くと、全体が交差した階段状の舞台であった。色彩的にはシンプルで、空に輝く月もなく、ヘロデ王夫妻の天幕も最後までない。階段状の舞台そのものは、かつて蜷川幸雄演出の『ハムレット』で観ているので、特に目新しくはないが、交差しているのは印象的である。ヨカナーンが囚われている地下牢と併せ、上昇と降下、天上と地上、高貴さと卑俗さ、その精神のダイナミズムを暗示しているのだろうか。地下牢にこそ天上的なものがあるという逆説は面白い。
ヴィリー・デッカー演出は、斬新で、七つのヴェールの踊りは、サロメが衣装を脱ぐことはなく、着たまま、色欲に目が眩んだヘロデ王にいわば〈M字開脚〉をして挑発するパフォーマンスのみ。それでも「踊りに満足したぞ」とヘロデ王。
斬首された預言者の首に接吻したサロメは、ヘロデ王の命令によって兵士たちに処刑されるのが正統の展開であるが、サロメは短刀で自害してしまう。予めこの小物の短刀は伏線として出されていて唐突感はなかったが、驚かされた幕切れではあった。ジョルジュ・バタイユ風な「死に至るまでの生の称揚」としてのエロティシズムを描いたのであろうか。
サロメを歌った森谷真理のソプラノは、美しく切々と迫るものがあった。秋は、東京二期会オペラ劇場、宮本亜門演出の『蝶々夫人』で蝶々夫人を務めるとのこと。本日チケットスペースオンライン経由でチケット予約をしてしまった。愉しみである。
なお3人の副指揮がいて、そのうちの一人根本卓也さんは、次男と高校の同期で、才人である。将来に注目している。